2019年1月20日    西行の時代 待賢門院璋子(4)
 
 平安末期を代表する艶麗の美女璋子は、鎌倉室町江戸期に出現した嫉妬のかたまり北条政子や日野富子、東福門院の嫉妬を超越していたと思えます。不美人ゆえの嫉妬は咎められず根は深い。夫がほかの女性に懸想するのを止めるのは至難。嫉妬は勝手に行動する。
 
 平安期の美人の基準は現在とはまったく異なり、しもぶくれのおたふく顔が美しいとされ、その理由の一つに栄養不良をあげていた学者がいました。説をご丁寧に支持したのはメディア各社で、真面目顔して紹介しているのには笑いました。
 
 美をきちんと評価しない学者とメディアのたわごとは視聴者の共感を呼んだのではないでしょうか。周りを見わたせば、美人は少ない、妻も娘も母も美しくない。しもぶくれが美なら、丸顔や馬面の女性もぶさいくとはいえない。相手より自分のほうが下位と思う気持ちも癒やされる。
 
 相手が自分より上位であれば不機嫌でも、相手と五十歩百歩と思えば溜飲が下がる。それは人間関係一般にも敷衍できることで、相手より上位に立つと優越感にひたったり高圧的になる人間は昔も今も、どこにでもいます。
 
 忠実のごとき偏屈甚だしい男は別として、男を魅了し、かしずかせずにはおかない璋子ほどの天性の美女は自意識もないほど優雅であったのではないでしょうか。
2012年放送・大河ドラマ「平清盛」に関して、平氏など下級貴族が栄華を極める前の不潔、不衛生を支持する人たちがいて、伊勢でOB会に初出席した後輩女性にもそういう立場の方があらしゃいました。清盛の父・忠盛は白河院に成功(荘園を寄贈)する資産家。粗末な長屋に住んでいるわけがありません。
 
 彼らは歴史の実相を是とするというより、平氏を扱った従来のドラマの華美に反対の立場。平安末期の貴族は明るい色を好みました。ドラマで貴族はくすんだ色の衣装を多く着用していますが、正しいとは言いがたい。実際は華やかな色の装束です。絵巻物はそれを忠実に描いています。
そしてまた平安末期、下級貴族はともかく、天皇、上皇、女院など高位の皇族は不衛生状態ではなかった。しかし下級貴族も財力のある者は市井の民ほど不衛生ではなかった。この件については、入浴や洗顔などと併せて後述します。
 
 各々の立場、見解が異なるのは構わないけれど、全国放送で小汚い場面を頻繁にとりあげ、その時代はそれであたりまえという偏った放送は問題です。清盛一家の館を長屋のごとくみたて、身体を清潔に保つ必要もなかったかのような考証は誤り。清盛の父忠盛は成功(じょうごう)目的で鳥羽院に受領地を寄進し、それでも余りある財力を持っていました。
清盛の代になっても財力はおとろえず、財力がなければ官位も低く、どうかすると任官さえもなく、力を蓄えることもできません。武力に財力が伴わなければ後の清盛はなかったと思われます。
 
 美と清潔は観念の問題であり、要不要の問題でもあったけれど、官位が高くなるにつれ、娘が中宮となる可能性が出たころ、清盛の清潔感、美意識は極度に高まったはず。平安末期は末法思想と裏腹に極彩色。高位の貴族ならずとも財力があれば、高価で色鮮やかな着衣も購入できたのです。薄汚れた衣装の清盛一家は曲解にほかならない。
 
 美人不美人の件も要不要と関連づけて、心を寄せる人とか夫とかが美人を必要としていなければ鏡をしげしげ見なくていい。美の概念は古今東西それほど大きな相違点はないとして、いつの世も要不要が思考と行動を決定づけ、貴女が気にするほど相手は気にしない場合もあるということです。でないと不美人は恒久的に売れ残るではありませんか。
 
 藤原璋子は童女のころから人目を惹く愛らしさにあふれていたことでしょう。10歳になるころは周囲の瞠目をあつめ、初めて璋子に会った男はときめき、目を見張ったと思われます。そういう男どもの視線、反応を璋子が気づかないわけはない。そこのあたりが18歳以上になって色気立ち、性的魅力を発散する女と根本的に違う。
18歳という年齢になると、それまで注目されなかった女は天狗になります。見られること自体が快感になり、さあ見てといわんばかりに得々とふるまう。
 
 少女のころから長年そういう目で見られてきた璋子の場合、感性という鬼が経験という金棒を持つという塩梅です。言い寄られてもするりとかわし、相手に不快感を感じさせない。逆に、言い寄れば必ず男は籠絡するという意に満ちていました。実際は籠絡どころではない、とろけた。
 
 忠実が警戒したのは、男を魅了してやまない璋子の美しさです。「殿暦」に奇怪と記したのは、白河院と璋子の関係を憂えたのではなく、玄宗皇帝の寵姫楊貴妃が脳裡に浮かび、強迫観念にとらわれたのではないか。
白河院の長きにわたる寵愛をうけた璋子は、容色に秀でているばかりか、利発であったでしょう。璋子に魅了され不安になったとも考えられます。奇怪ということばは奥深い。忠実は剛毅な父・藤原師通とは比較にならぬ不安定な性格であったというほかありません。
 
 さて湯屋です。東大寺には8世紀初頭創建という大湯屋(重要文化財)があり、現在のものは1937年、室町期(1408)の湯屋が約530年ぶりに再建されたといいます。奈良時代の湯屋も下の画像(室町期 相国寺浴室)も湯屋内部に湯気の出る仕掛けが施され、蒸し風呂(サウナ)の形態をとっています。
法華寺にも光明皇后(701−760)が建てた浴室(往時は唐風呂)が残っていて、やはり蒸し風呂。現在の浴室は1766年に再建されました。ガンジス川の沐浴が中国を経て、いつのころからか、より浴室的な蒸し風呂になったというわけです。
 
 平安末期には湯屋のほかに湯船(浴槽)もありました。ものの本によると平安期半ばに編纂された律令施行細則「延喜式」巻34に、個人用湯船の大きさについて記されています。「長五尺二寸、広二尺五寸、深一尺七寸、厚二寸」。
長辺約157センチ、短辺約76センチ、高さ51センチ、厚み6センチ。バスタブということでいえば、マンションサイズの大(長さ160センチ)より少し小さめですが、平安期の平均的体格からみれば十分でしょう。
 
 この湯船にカマドで沸かした熱湯を入れ、水を足して適温にする。湯船の大きさは天皇以下、位階によって制限があり、寸法の下限はあったのではないでしょうか。下限といっても、天皇上皇女院よりやや小さめといったところでしょう。湯船を設置する場合、許可が必要だったかどうか。
 
 下位の者は高位の者を模倣するのが習わしであった時代、許認可制はあったと推測しますが、摂関家はもちろん、高位の貴族邸は十分な敷地もあったから、湯屋の一つくらいつくって、ついでに湯船もということになったかもしれません。湯船は木製としても、どのような木材が使われたのか不明。
 
 湯浴みということになれば、次に身体を洗う石鹸のようなものの調達です。平安期には、灰汁、米ぬか、小豆の粉と香料をまぜた「洗い粉」を木綿や絹の袋に入れて、湯とともに身体、顔を撫でるように拭いていました。
いまでも米ぬかは使われています。皮膚アレルギーに悩む女性には化学物質より素肌にやさしいからです。椿油を塗って汚れを落としたこともありました。
 
 1日1度、必要なら2度、朝夕の湯浴みは高貴な女人のたしなみであり、前夜の悦楽を思い出しつつ朝湯をたのしみ、今宵の交歓にそなえて夕べの湯浴みをする。前もって白河院殿の伺候日を知らされている璋子には欠かせなかったでしょう。
洗髪は米のとぎ汁を櫛につけ髪をすく。ツヤ出しの整髪料は丁子(「ちょうじ」の蕾を乾燥し油をとる)、実葛(「さねかずら」のツルから粘液をとる)を利用しました。
 
 高位貴人が身体を清潔に保つのは夜伽のほかに、神道の御祓(みそぎ)、仏教の浄めに起因したようですが、璋子の場合は清潔、芳しい匂い、美容が優先されたはず。璋子の馥郁たる香りと幽艶の保持にはお金と時間、根気が必要。璋子専任の侍女がボディ洗い、整髪を担ったと思われます。
 
 口臭が気になるのは平安末期においても変わりなく、現存医書最古の「医心方」(10世紀の医官・丹波康頼撰)に「朝夕歯を磨けば虫歯にならない」と記されている。塩は播磨国赤穂から都へ運ばれ、歯磨きは歯木(6世紀以降)を使うより、指に塩をつけて、歯と歯ぐきをマッサージするほうが効果的。
湯浴みで体臭を消し身体を清潔に保つのも、歯みがきで口臭を消すのも、相手に不快感を与えず甘美な一夜を過ごすために不可欠だったのです。
 
 「京都〈千年の都〉の歴史」(高橋昌明著)や「平安の都」(角田文衞編著)によると、「平安京では東市(ひがしのち)と西市(にしのいち)と呼ばれる官営市場がそれぞれ現在の西本願寺と七条西大路に、半月交代で開かれていた。扱う商品が東市と西市で異なり、両市共通品は米、塩、魚、油。東市専用品は布、麦、木器など、西市専売品は土器、絹、麻、味噌など」。
 
 「東西市は役人や役所が必要物資を調達するためのものだった」し、「売買品目、売値、営業時間も市司という官人に統制されており、公共の広場とはかけ離れた官僚施設だった」と記されています。貴人に仕える人たちが二手に分かれ、さまざまな品々を買いに走ったすがたが目に浮かびます。
 
  
 夢のなかで「西行」を連続ドラマ化すれば、待賢門院璋子は10〜40代を20〜40代の佐久間良子。西行は竹野内豊。白河院は40代の伊丹十三。鳥羽天皇は12世市川團十郎。藤原師通は阿部寛。忠実は18世中村勘三郎。璋子の兄・徳大寺実能は30代の東千代之介。堀河は常盤貴子。祇園女御は池上季実子。
平忠盛は草刈正雄。忠盛正室・池禅尼は40代の京マチ子。平清盛は20代半ばまでを滝沢秀明、20代後半以降を40〜50代の15世片岡仁左衛門。平時子は稲森いずみ。崇徳上皇は10世坂東三津五郎。後白河天皇は当代松本幸四郎。 
 
 藤原忠通&藤原頼長、信西など保元の乱の重要人物や、藤原信頼、源義朝、美福門院ほかの主要人物のキャスティングは未定。買い物に出る使用人、璋子の髪を洗う女など、ちょっとした脇役もそれなりの配役が必須。仮想現実の文字としてでなく、映像世界をみることができればさぞ楽しいでしょう。
     
 
                               相国寺 浴室 室町時代


前の頁 目次 次の頁