2024年3月11日    おやすみなさい札幌
 
 札幌は昭和56年夏までホテル暮しだったが、昭和57年(1982)秋、札幌市中央区南2条東6丁目の新築マンション(ギャラリーハイツ南2条)を購入しホテルとおさらばした。
14階建てマンションの1F〜2F角に札幌市民ギャラリー(3Fは事務所)が敷設され、地下鉄東西線バスセンター前駅から徒歩1分、地下道でバスセンター前〜大通り〜札幌駅へ行き来できた。購入した分譲マンションの一室は1301号、13階の角部屋。約100uの4LDK。
 
 窓は北海道で一般的な二重窓、外壁の断熱材の厚さは50ミリではなく75ミリ。夏の断熱効果ばかりではなく、冬の防寒も優れている。遮音効果も際立ち、昼夜を問わず車の騒音を防ぐことができる。
マンション・バルコニーは16帖のリビングと6帖の和室にまたがり、眼下は豊平川の河川敷というロケーション。将来にわたって見晴らしを遮るものは建たない。すぐそばに一条大橋が架かっており、橋をわたれば菊水。売価は2690万円。買わねば損をする。
 
 北海道に欠かせないのは暖房設備。マンションの各部屋は給湯暖房セントラルヒーティングが完備されており、バスルームは乾燥機を兼ねる。洗濯物を外に干せば凍ってしまう。夜の入浴中に洗濯機を回し、乾燥機のタイマーをセット。起床したら乾いている。当時、内地にはバスルームに乾燥機完備のマンションはなかったように思う。
 
 昭和49年(1974)、紋別市に建てられた母の別宅は全室に給湯暖房が完備。給湯管は床の四隅に設置された化粧箱に隠され、化粧箱上部からの暖気が室内をめぐる。風を伴わず、空気も汚れず、部屋全体を素早く暖めた。
セントラルヒーティングの快適さに慣れてしまうと、ほかの暖房が安物に思えてくる。冬期、マンションは留守にすることが多く、給湯管の凍結予防のため常に5℃以上の保温設定をする。
 
 紋別の家の浴室の隣には大きなボイラー室があり、暖房、風呂、厨房を支配下に置く。ときおりボイラーは「ゴォー」とうなり声をあげ、入浴中、壁を通して侵入する音に耳をそばだてた。ボイラー室は冬期、洗濯物の乾燥室としても活躍する。
 
 マンション販売元は北海道住宅供給公社。購入にあたっての制限がいくつかあり、年収1200万円以下の北海道民でローン支払い終了期の年齢は70歳未満。期間は5年以上25年以下。宝恷s民だったので紋別市に住民票を移した。
 
 道内に住所を移して3ヶ月以上経過すれば購入資格を得、その場合、市民税証明書は他市町村のものでOKと供給公社の従業員が言っていた。収入制限は高収入の者が投機目的で購入するのを防ぐため。札幌は第一次マンション建設ラッシュの先駆けだったが、抽選もなくスムーズに購入申込み終了。
 
 昭和58年〜62年、札幌は年に5回か6回行っていた。たまたま同じ便に乗った母と千歳空港の通路を到着口に向かっていると、前方に独特の歩き方の男がいた。左右の肩の高さが異なる。
並んで歩いていたのは稲川会の初代会長・稲川聖城。やくざ映画に出演当時、交流が噂されていた。母に「鶴田浩二だよ」と告げると、早足になって鶴田浩二を追い抜き、10メートルくらい先で振り返る。まさかの行動に唖然。
 
 昭和61年、ドラマ「シャツの店」が鶴田浩二の遺作となった。東京・佃のオーダーシャツの店主役。女房役に八千草薫。共演は平田満、杉浦直樹、佐藤浩市、井川比佐志など。
太平洋戦争時、鶴田は特攻隊機の整備士。戦後、私財を投じて遺骨収集に貢献。それが政府による遺骨収集へとつながった。昭和62年、鶴田浩二の弔辞を読んだのは従軍経験(インドネシアの島で悲惨な体験をしている)のある池部良。
 
 札幌ー伊丹便には石原慎太郎が真後ろの席に座っていた。着陸後、席を立つとき近くの人とかわした会話の声で慎太郎とわかった。「大阪のテレビに呼ばれましてね」とか何だら言っていた。都知事ではなく国会議員時代。慎太郎氏はちらっと小生を見たが無視した。気取っている人間は苦手なのだ。
 
 マンション購入の年(1982)の春、札幌地下鉄東西線「大谷地(おおやち)」駅に「大谷地バスターミナル」が完成開業し、千歳空港までの直行バスを運行していた(本数は多かった)。空港まで40分弱。「バスセンター前」から「大谷地」へは地下鉄で7駅14分。電車の本数も多い。札幌中心部から千歳空港行きバスに乗れば80分の所要時間を20分以上短縮できる。
 
 札幌用に車を買い足した。マンションそばにある駐車場は月額4000円と安く、当時、千歳空港駐車場は無料だった。千歳の駐車場に最長2週間くらい駐めていたと思う。
商用で東京へ出張する人でも4、5日の駐車だろうに、2週間はハタ迷惑。千歳空港駐車場が年々混雑してきたことから地下鉄で大谷地まで行き、空港行きバスに乗る。かえってそのほうが早く行けた。
 
 アトピー性皮膚炎に罹っていた伴侶は昭和の終わりから平成の初め北海道にいることが多かった。札幌、紋別を交互に行きかい、紋別滞在中は伯母が来て炊事を担当。寡婦となって数年たった伯母は、孫も10歳くらいで手がかからなくなり、「わっちで間に合うなら遠慮しなくていいんだよ」と積極的に協力してくれた。
 
 母は10人兄弟姉妹の末っ子。長男の娘である従姉は小生より17歳年上で、戦前の鳥取、戦後の関西と母の住む場所の近くにいた。長男は漁業に携わるのがよくよくイヤだったのか、妻、従姉とその妹を捨てて出奔、和歌山、広島などを転々とし、小生が小学生のころわが家に半年くらい居候していた。
次男は文学中年だった。三男は頭が悪く、跡継ぎはとうていムリとみなされていた。跡継ぎ候補で小樽に船会社を所有し船長だった四男が小郡(山口県)の鉱山を買って北海道を離れる。学生時代に四男と銀座を歩き、交詢ビルの前を通りかかったとき、戦前この近くにビルを持っていたと言っていた。
 
 四男が去ったあと期待を寄せられたのは五男。話を聞いたり写真を見ると海の男という言葉がぴったりの伯父だったが、沖合に出航したまま不帰の人となった。紋別で炊事をしてくれた伯母(六男の奥さん)の実家は小樽の旅館。四姉妹の末っ子。七男は夭逝した。
 
 結局、網元の権利と漁船2隻を継承したのは頭の悪い三男だった。そして権利も漁船も売り払い、昭和40年代初め、2億とも3億円ともいわれるカネを陸の事業につぎこむ。札幌に建設会社、紋別に銘木製造販売会社など。事業は人に任せて、銘木会社のほかはことごとく失敗した。銘木が残ったのは三男の養子が真面目で人望があったからだろう。
 
 三男は札幌の旅館で仲居をしていた女性と愛人関係に陥り一子をもうけた。三男には養子のほかに養女がいて、その女性は長男の三女。養女は中年になるまで自分が実子であると思いこんでいた。義父に愛人がいることを知っていながら自分のことは知らずにいたのだ。三男の妻は愛人の存在に気づかず、高齢になって知ったときの怒りはすさまじかった。
 
 お盆過ぎの夕暮、紋別大山町は内地の晩秋になる。ところが8月15日、全国一の最高気温が紋別となり、北海道で初めて経験する熱帯夜。扇風機をフル回転させても効果なし。別棟にいる私たちが眠れず外に出たら伯母もいて、「こんな暑い夜、初めてだよ」と言う。
主屋の300メートル裏手の森の手前に母が建てた石碑が2塔あり、石碑までは上り坂。主屋反対側の庭には住民の要望で稲荷社と鳥居を建てた。稲荷社にお詣りする人が供えた油揚げや鶏肉を目当てに森からキタキツネがやって来る。供物がない日も夕方になるとウロウロしている。
 
 夏の日、伴侶とふたりで石碑へ行ったら、子ギツネが2匹ほたえていた。私たちに気づいて動きを止め、目が合うと一目散に逃げていく。暴れていたところへ行くとバラバラになったヘビの遺骸。地元の人たちがカラスヘビと呼んでいるシマヘビの1種だった。ヘビは子ギツネの餌にはならないけれど、恰好の遊びなのだろう。
 
 秋の夜、離れの玄関引き戸をコツコツ叩く音がする。声をかけても返事はない。不審に思って引き戸を開けたらやせ細ったキタキツネが立っていた。身体にツヤがなく、あごはとんがっている。主屋の冷蔵庫に豚肉があったので取りにいく。キツネは動かず待っていた。
 
 稲荷大明神のご利益を受けているかどうかわからないとして、キタキツネの飢えを一時的に救えばご利益があるかもしれないとは思わなかった。みすぼらしくなったキツネの眼は人間の眼よりも説得力があった。
肉を与えたときの感謝の念に満ちたキツネの表情がよみがえる。その後。子ギツネは巣立ちして大山町の森を離れたのだろうか、杳(よう)として姿を見せなかった。
 
 伴侶は札幌に丸1年いたろうか。寂しがらないよう毎月札幌に通った。仕事から帰っても伴侶のいない家はたとえようのないほど寂寞。毎月第一日曜と21日(弘法大師の月命日)は大事な行事があり、その間の3日か4日の滞在。
特割も早割もない時代、伊丹札幌6枚つづりの回数券を利用した。往復するから3回でなくなる。通常、往復割引は10%だったが、回数券は12%と記憶している。
 
 初秋、小生が来る日、食料品調達に三越(徒歩10分)へ出かけた伴侶は根室で水揚げされたサンマを買った。魚売り場の従業員に勘定を渡そうとしたら800円也。ケタを間違えた。
いまさら要らないとも言えず買った。マンションに到着した小生に、「サンマ買った」と見せる。ピカピカに光って脂がのった大ぶりのサンマ。先にも後にもあんなおいしいサンマを食べたことはない。もう一尾買ってくればよかったのに。
 
 札幌のマンションは老若男女とりまぜ多くの知り合いが泊まっていった。複数人が宿泊する場合、ユニットバスの湯はそのつど入れ替えた。夕食は外食することもあり、札幌在住の女性が腕をふるうこともあり、来客の朝食はほとんどその女性がつくりに来てくれた。味つけは大阪の老舗料理店なみ、だし昆布は日高産を使っていた。ホッキ貝のバター焼きの味は忘れがたい。
 
 2024年1月下旬、札幌へ行った伴侶は、ホッキ貝のバター焼きがメニューに載っているススキノの小料理屋で食したが、彼女のと較べればぜんぜんと言っていた。
 
 さまざまな療法を試みてもアトピー性皮膚炎回復の兆しのない伴侶を、1989年7月初旬、それ以上ひどくなる前にと考えて香港発券のCクラスフライト・クーポンを利用して欧州レンタカーの旅に向かった。伊丹=パリ=ニース=パリ=フランクフルト。フランフルト=チューリッヒはオープンジョーにして、チューリッヒ=ミラノ。(伊丹空港に国際線があった時代)
 
 エールフランス香港支店で購入したが、復りはアリタリア、欧州内はエールフランス(パリ=ニース往復)、ルフトハンザ(パリ=フランクフルト)、スイス航空(チューリッヒ=ミラノ)。終着は伊丹ではなく香港、購入時から1年間有効のオープンチケット。
 
 ニース空港でレンタカーを借りアンティーブで3泊。カンヌ、モンテカルロなどコートダジュールをドライブした。その後パリ2泊。フランクフルト空港でまたレンタカーを借り、バーデン・バーデンで3泊、バーデン・ヴァイラーで2泊し、フライブルク、フロイデンシュタット、黒い森をめぐった。
バーデン・バーデンから近距離のストラスブールも行く予定だったが、バーデン・バーデンでのんびりした。チューリッヒ空港でレンタカーを返却しチューリッヒ2泊。チューリッヒ空港からミラノ空港へ飛んで、コモ湖畔で3泊。
 
 ミラノから成田経由で伊丹。いったん宝怩ヨもどった翌日、伴侶は札幌にもどり、小生もあたふたと用を片づけ、2日後札幌へ行った。旅のフィルム36枚撮り20数本は札幌三越のDPEに出し、滞在中1日で分厚いアルバム5冊を完成させた。小生が去ったあと2週間、伴侶はアルバムを開き、旅を続けている気分だったという。
 
 1989年以降、伴侶の病状は徐々に悪化し、1996年までヨーロッパへは行けなかった。その間、北鎌倉駅に近い線路沿いの喫茶店で伴侶と待ち合わせたことがある。まだ独身だったころ、覚圓寺(かくおんじ)を経由するハイキングコースを歩いたとき寄った喫茶店。伴侶は札幌から、小生は宝怩ゥら来て、翌日、羽田で別れた。
 
 その後も札幌へ通った。或る日、伊丹発の便が大幅に遅れて千歳に到着。携帯電話のない時代で、大谷地行きのバスに飛び乗ったためマンションに電話できなかった。
 
 マンションへ着いても伴侶のいる気配がなく、部屋を探しても姿はない。三つある押し入れを順々に開け、最後の押し入れを開けると、上側の布団で冬眠中のリスのように身体をまるめていた。押し入れに隠れて待っていたが、待ちくたびれて眠ってしまったのだ。
 
 押し入れの引き戸を開けても眠りからさめないので、そっと引き戸を閉めた。おやすみなさい札幌。
 


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