石原裕次郎と牧村旬子のデュエット・ソング。後年、八代亜紀も裕次郎と歌った。ロスインディオス&シルヴィアの「別れても好きな人」と並んでムード歌謡デュエット・ソングの名曲ではないだろうか。
ずいぶん昔、といっても昭和61年(1986)春ごろだったか、宴会好きの母が当時流行っていたカラオケを買って、そのときも宴会参加者に歌うよう勧める。参加するのはおおむね同じ顔ぶれで、歌う人もだいたい同じ。
歌の得意な田野さん(小生と同年)が十八番の「刃傷松の廊下」(オリジナルは真山一郎)を「勅使下向の春弥生」以下せりふ入りで歌ったあと、紋別から来ていた西山さんを指名。全員、彼女の歌を聴いたことはなかった。
躊躇する西山さんは2歳半のチエちゃんの母親。当時30歳くらい。意を決して、「副会長さん、お願いしていいですか?」と谷沢さんに声をかけた。
谷沢さんは「komori写真館」の「思い出写真館2」に登場する香港のワンさん。妹がワンさんと呼び、香港滞在中、小生も陰でそう呼んでいた。谷沢さんは広東語で話しかけられ、「ノーノー」と言い、それを妹が目撃。
谷沢さんは歌がうまく声もいい。30代後半から40代前半、千昌夫の「星影のワルツ」ばかり歌って、谷沢さんより数歳年長の浜野さんが、「早う結婚せえよ」とヤジを飛ばしていた。浜野さんも独身。ヤジに嫌気がさしたわけではなかったろうけれど、その後は五木ひろしの「千曲川」を歌うようになった。どっちにしても失恋ソング。
ぶっつけに戸惑うことなく谷沢さんは快諾し、西山さんが選んだのは「銀座の恋の物語」。「心の底までしびれるような」と西山さんが歌いはじめると会場はどよめいた。「吐息が切ない囁きだから」と谷沢さんが情感をこめてくちずさむと水を打ったように場内は静まりかえる。初めてコンビを組んだとわかっているだけに信じられなかった。
谷沢さんの歌い方は朗々として、うまさに定評があったけれど、片想いの歌とか失恋ソングで、恋愛でもなければムード歌謡でもなく、初めて彼の実力をまざまざと感じる。
西山さんの歌声は愁いをおび、可憐さのなかに微かな潤いがにじんでいた。居合わせた人のカラオケに対するイメージは一変しただろう。人に聴かせるのではなく、人を酔わせる歌。
京都の老舗和菓子をひとくちでほおばって食べる谷沢さんのようすを妹が、「ぜんぜん味わっていない、何を食べさせても同じだ」と言い伴侶を笑わせた。
大阪の「なだ万」でウーロン茶を2杯一気のみし、3杯目、4杯目と飲み干す彼を、妹と伴侶が「タダ(無料)だと思っている」と陰口たたいていたが、タダだと思っているのは間違いなかった。頭髪は薄いが目鼻立ちがくっきりした二枚目。目が大きく、鼻が高い。
谷沢さん、西山さんを呼ぶときは姓ではなく名で呼んだ。タダヨシさん、ユキコさん。タダヨシさんは小生より5歳年上で、古くからの知り合い。ユキコさんも20代後半からの顔見知り。人と話すとき相手の目を見て話す彼らに好感を持った。
タダヨシさん家族が住む社宅は小生の実家から徒歩10分ほどで、彼の母親が出入りしていた関係でタダヨシさんは勤務先からの帰りに寄っていくことがあった。
彼の父親は大阪中央郵便局に勤めていたが、タダヨシさんが高校生のころ亡くなり、高校卒業後、大阪中央郵便局に就職した。郵便局時代から有給休暇を取って行動を共にすることが多かった。25年間の郵便局生活をやめ、100%私たちと行動する。彼と小生を結びつけたのは信仰と旅だ。
共に旅した経験はあまりに多い。家族同然というよりある意味家族以上だった。長崎、大分、鹿児島、香川、小豆島(10回以上)、岡山、鳥取、米子、大山(だいせん 10回以上)、京都、滋賀、奈良、高野山、三重、北陸、長野、岐阜、東京、茨城、福島、宮城、岩手、青森、北海道(20回以上)。香港(10回以上)。私たちの行くところタダヨシさんあり。
二人きりで行動した記憶は昭和57年、鳥取の伯母の家に3週間ほど泊まり込んだこと。2階でタダヨシさんと枕を並べ寝ていた深夜、震度5の地震があり、突き上げるような縦揺れと、ゆさゆさした横揺れで棚の何かが布団に落下。翌朝、話しかけると「地震なんてありましたか?」と不審顔。こりゃダメだわ。
そして母の名代でタダヨシさんと共に参列した通夜、告別式。何回あったろう、10回や15回ではきかない。そのときはタダヨシさんが社用車を運転し、小生は後部座席。私たち共通の故人を偲んで会話を交わしたいときだけ助手席に座り、彼もそれを望んだ。昭和60年から平成3年までが小生の黄金時代だった。
チエちゃんが小学校3年か4年生のころ、タダヨシさんの部屋の机にはモグラ叩きと駄菓子が置かれていて、チエちゃんは妹の子(男子 当時5歳)を伴ってモグラを叩き、駄菓子をつまみ、妹の子もマネする。
子どもたちはタダヨシさんを「モグちゃん」と呼んでいた。「お時間でござる」と言葉を発する印籠型の目覚まし時計をチエちゃんにあげたのも彼。子どもの喜ぶような玩具を集めるのがモグちゃんの趣味。
ユキコさんは母子家庭にめげず、チエちゃんが同志社大学社会学部を卒業するまで育て上げた。小学校6年生のチエちゃんが作文の課題「尊敬する人」は母と書くに値する立派な生き方だった。
彼女が幼いチエちゃんと母子二人で紋別に暮らしていたころ、小生の母が所有する土地家屋裏からわき出る水(市の調査で良質と証明済み)を汲み、18リットル・ポリタンク2個を毎週、宝怩ヨ送ってくれた。アトピー性皮膚炎の伴侶の飲料水。
ユキコさんとチエちゃんに最後に会ったのは2010年。チエちゃんが子どものころ、「孫の世話をするのが夢なんです」と言っていたユキコさんのそばのベビーカーには赤ん坊。ユキコさんのささやかな夢はかなったのだ。
タダヨシさんは1998年の母の葬儀を終えて数週間、残務整理を手伝ってくれた後、長いあいだ会っていなかったが、解体され跡形もなくなった母の旧家近くで2016年、ばったり会った。
あれから大阪東急ホテルや東急インの守衛をやったそうだ。一滴も酒を飲まないタダヨシさんは、「居酒屋から声がかかって毎晩のように行って(歌って)います」と愉しそうに語っていた。
「銀座の恋の物語」。作詞家の気持ち、作曲家の心意気を感じていなければああは上手に歌えなかったろう。しかしそうであったとしても、甘く切ないメロディを歌にする表現力は傑出し、銀座を歩く男女のすがたが浮かんだ。いまもタダヨシさんとユキコさんの歌声が聞こえてくる。昭和の心の風景、記憶に焼きつく思い出を残した二人。
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