2019年1月23日    西行の時代 待賢門院璋子(5)
 
 1118年、璋子は鳥羽天皇の中宮となり、翌年男子(後の崇徳天皇)を出産し、鳥羽天皇はその子を叔父子と呼んでいたことはすでに記しました。その後1122年に女子を出産すると、1124年から1127年と毎年続けて四子を出産、1127年に産まれたのが後の後白河天皇で、四子はすべて鳥羽天皇と璋子の子と考えてよいでしょう。
 
 白河院も年には勝てなかったということと、鳥羽天皇と璋子のあいだに以前とは異なる感情、歓びが芽ばえた。1127年の時点で五子の母となったといっても璋子はまだ満26歳、鳥羽天皇は2歳年下の満24歳、夢みる若者が経験をつみ、身体もなじんで同衾の心地よさを覚える年頃です。
 
 白河院は11世紀後半から御所・白河殿の建設を左京区岡崎に始めており、法勝寺(その金堂は東大寺に匹敵する規模)境内に巨大な八角九重塔を建立しました。1083年に完成した九重塔は高さ81メートル。高さ55メートルの東寺と較べるといかに巨大かがわかるでしょう。
巨大な塔は華麗であったらしく、それは屋根が瓦葺でなく檜皮葺だったからといいます。「京都〈千年の都〉の歴史」に、「東の山科盆地から粟田口を越えて都に入る人々が、最初に目にするのはこの大塔で」と記されています。
 
 法勝寺九重塔が1342年の火災によって焼失したのは禍根が残ります。再建されなかったのは莫大な費用がかかるからなのか。白河院という特異な存在が平安末期に創出した夢はふたたびよみがえることはなかったのです。焼失当時は南北朝の動乱期、室町幕府はその後も不安定なまま応仁の乱へ突入し、都が平静を取りもどしたのは豊臣・桃山時代。
 
 秀吉がその気になれば再建可能であったでしょうが、彼は天皇法皇の栄華を再構築することよりむしろ、鴨川の治水工事(堤防建設と川の平坦化)で貴賤を問わず都の衆目をあつめ、聚楽第建築で自らの権勢を誇示することに注力。川幅が広がるあたりから都中心部にかけて数カ所の段差を設けたため急流がなだらかになり、鴨川の氾濫は減ったのです。
 
 さて1125年、白河院は璋子のために円勝寺創建を発願し、1126年に金堂、中塔が、1127年には東塔(五重塔)、西塔が完成しました。「待賢門院璋子の生涯」には、「円勝寺は法勝寺の西隣(‥中略‥)に建立され、敷地は岡崎の京都市立近代美術館のそれにほぼ該当しており、そこからは、法勝寺址や尊勝寺址のものと同箔の古瓦類が発見されている」とあります。
 
 円勝寺造営資金は法勝寺など六勝寺の造営と同じように「成功」(じょうごう=「北面武士(1)」に既出)によって賄われました。成功は通常、国司が私費を供出するのですが、実状は国司が地方に課すという方法がとられ、民の負担が高まるばかり。しかし私費を投じた国司は民に尊敬されました。
 
 法勝寺、円勝寺は本体だけでなく、各堂塔内に安置する仏像、曼荼羅(白河院は密教を贔屓=篤い信仰かどうか疑問)ほかの御物の費用も入っているので膨大な出費。なお、角田文衞著「平安の春」には「白河院が六勝寺など寺院に納めるために造った仏像は丈六仏だけでも127躰。等身仏や3尺以下の小仏まで算入すると合計5000躰余になる」と述べられています。 
 
  ☆丈六仏=仏像(立像)の背丈が一丈六尺(約4、8メートル)。坐像の丈六仏の場合は半分の約2,4メートル☆
 
 それだけの費用をかけるのであれば、中世ヨーロッパに準じるような保護保存がなされてしかるべきなのに、残されるべきものがほとんど残っていないのは、いかにもという感があります。
いまさらですが、地震などの天災を免れなかったとしても、戦火に対する仏像の保守、火災の対応(警護多数の宿直)を講じたのならともかく、現下同様、そのつど「このようなことを二度とくりかえさないために」と読経を百万代言くりかえし改善されない。人的保護体制の強化は十分といえず、確実に守られてもいない。
 
 
 白河院と璋子のあいだに齟齬をきたすことはあったにせよ、長年保ちつづけた蜜月も、院の高齢による勘気と身体機能低下で円滑さを失ってゆくのは自然の理。それでも院の長期にわたる権勢は体力により保たれていた。70歳を過ぎても老いを自覚していなかったかもしれません。
 
 白河院は遺恨を持つ性質ではなかったでしょうし、権力者の立場であれば遺恨となる前に怒ったり、相手に処分を科し鬱憤をはらすこともできた。その結果、院は懊悩の内側にとどまることもなかった。
性質的に遺恨を持ちやすい人間は、ちょっとしたことを恨み、皮膚に張りついて離れない蛭より執拗。学者にはそういうタイプがいて、意見が異なったとき、その場は平静を装っても脱却できない。
 
 鼻持ちならないのは、自分の想定と異なる対応をした相手を許せず、発散してもウサばらしをしても、ず〜っと恨んでいる人間です。これは男女の別なくいて、あえていうと女性に多い。蛭でも体力が消耗すれば皮膚からすべり落ちるのに、まだへばりついている。粘着力が強すぎて自身もネバネバになり収拾がつかない。
      
 白河院は璋子の第一子・顕仁(あきひと)親王をことのほか愛され、満70歳になろうとする年(1123)の正月、まだ満20歳の鳥羽天皇を退位させ、わずか3歳半(満年齢)の顕仁親王を皇太子とし、その日のうちに譲位されました。崇徳天皇の誕生です。鳥羽帝は上皇として政を司ることとなりました。
 
 鳥羽院は祖父白河法皇より50歳若いことから、天皇に固執するより上皇の立場でにらみをきかせているうちに祖父は崩御するだろう、幼帝が少年または青年に達していても、独裁に近い白河院の専横を煙たく思う廷臣の思惑を考慮すると、主たる面々は自分の側につくはずと思っていたのではないでしょうか。
 
  48歳という年齢差のある院と女院といえども諍いはないわけでもなく、正四位の官位を従三位に昇位させる人選をめぐって、「女院が院に対して諌言する」(「待賢門院璋子の生涯」)ということはあったそうです。
璋子からみると人選は不適当だったのでしょう。院政絶頂期、院に意見するのは摂政関白といえども憚られ、「それは待賢門院ただ一人」(前掲書)であったようです。諌言は聞き入れられるときも、そうでないときもあったと思われますが、突拍子もないこと以外は概ね通ったのでしょう。
 
  やんごとなくないふつうの男女なら、若いうちは諍いのあと仲直りして地固まるということもあり、老いると仲直りは偽装、まして地固まるなどということは決して起こらず、訣別ということもありえます。諍いは疲れがどっと来るだけで、ドット来む(COM)。
 
 鳥羽上皇と白河法皇とのあいだの諍いにはさすがの璋子も悩み疲れたでしょう。そういうときは法皇の機嫌が収まるのを待つか、上皇が折れるのを待つしかなかったのかもしれません。
たいして広くない洛中の殿内で、ことあるたびに顔を合わせ、何度か熊野三山参詣をともにした祖父・孫のことです、仲直りにそれほど時間はかからなかったと思われます。
 
 1129年7月、璋子に運命のときがやってきます。白河院が崩御されました。まだ数年は法皇の座にいて、政の中枢を担う意気は持たれていたでしょう。院がお隠れになった後、璋子と崇徳上皇の人生は大きく変わってゆくのです。
 
 
                       阿弥陀如来(重文) 丈六 平安時代後期 法金剛院


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