2024年6月17日    哀愁のプラハ慟哭のリスボン(3)

 1996年10月12日11時10分ミュンヘン発ルフトハンザLH4666便に搭乗、リスボンまで3時間15分。座席はエコノミークラスが満席だったせいで、アップグレードのビジネスクラス最前列1B、1C。1Aにはやさしそうな二枚目男性が腰かけていた。座るとき伴侶がほほみながら彼に何か言い、それが幸運を呼ぶ。
 
 4666便が水平飛行にうつると彼が話しかけてきた。名はパントンさん。4輪駆動車で有名なローバー社ポルトガル現地法人のスーパーバイザー&ディレクター。「リスボンは初めてですか」と問い、「私は2度目ですが家内は初めてです」と応えると、「ポルトガル語の練習はいかがでしょう」と提案した。願っても叶っても。
 
 そうこうしているうちに機内食が運ばれ、予想外の美味に満足。パントンさんはランチのあいだも教授をつづけ、何度も発音を聞き返したのに、イヤな顔ひとつしないで教えてくれた。
おいしいビールの銘柄を尋ねると、「日本の方の好みに合いそうなのはインペリアルです。ドラフトビールか生ビールの味」と言う。リスボンで毎夜飲んだ。飲み口がさわやか、キレもよかった。帰国してデパート数軒の酒売り場を探訪したが、ドイツやベルギーのビールはあっても、ポルトガルのビールはなかった。
 
 着陸態勢に入る前、クルーがパントンさんの機内食トレーをさげにきた。私たちのトレーは1時間以上前に片付づけられていたが、パントンさんはオードブルとコーヒーにしか手をつけていなかった。非礼をわびると彼は言った、「イッツ マイ プレジャー」。「リスボンで困ったことがおきたら、いつでも連絡してください」と航空機の降りしなに名刺を渡してくれた。
 
 23年ぶりのリスボンだった。初めて行ったのは1973年10月、ガイドブックに頼らず、あてどなく街を歩き、路面電車に乗り、どこを回ったのか、サン・ジョルジェ城と発見のモニュメントのほかはおぼえていない。
リスボンはそれまで見てきたヨーロッパの街、パリやローマ、マドリッドなどに較べると独特の色調に彩られ、しっとりして、見るものすべてが新鮮で魅力的だった。街行く人々は庶民的で気取らず、親近感が伝わる。
 
 夜ライトアップされたサン・ジョルジェ城から眺める市内、月明かりに照らされたテージョ川は、20代半ばだったから深い感慨はなかったけれど、40代後半に再訪し眺望すると、20年分の人生が押し寄せた。眼前に広がる夜景ではなく、自らの心の風景をみていたのだ。
 
 高倉健は毎年リスボンへ行っていたという。リスボンでは無名の人なので、スターであることも人の目も意識せず、庶民的な空気のなか自然体で過ごせる。日本のメディアも、支局もなければ特派員もいないリスボンまで追ってこない。
 
 小生が泊まりたかったのは「ダ・ラパ」、現在の「オリシッポ・ラパ・パレス」。高級住宅地の一角にあり、ネオクラシックとアールデコなどの折衷様式建築。部屋のバルコニーから街やテージョ川が一望でき、美しい庭園もある。
 
 客室はどのタイプもステキ。写真で見て、泊まるならここだと代理店(リーディンング・ホテルズ)に連絡。部屋数は約100室だから何とかなると思っていたが、ぜんぜんダメ、10月末まで満室。ミュンヘンのホテル・ラファエルに次いで再度ふられました。「ダ・ラパ」が高倉健の定宿だと帰国後に知った。
 
 で、結局、「リッツ・インターコンチネンタル」に3泊。エドゥワルド7世公園を眼下に見おろし、リベルターデ大通りもすぐそば、部屋は広いが、朝食の卵料理とコーヒーがダメで、2日続けて「ダ・ラパ」へ朝食を食べに行った。「リッツ」はレセプション・スタッフもお粗末。映画「アマデウス」のサリエリ似のコンシェルジュだけは強面だが優秀で、行き届いていた。
 
 サリエリに観光手配を依頼。市内のみどころ、中華料理とファドを要望したら、しかるべきレストランとファド酒場を手配し、マフラ修道院がお勧めと言った。日帰り英語バスに乗り、ありふれてはいるが、伴侶は行ったことがないのでベレンの塔、ジェロニモス修道院、アルファマ地区、発見のモニュメントを見学。
 
 観光を終えて、パントンさんに教わっていないことばで、英語・ポルトガル語ポケット辞書の「アテ・ローゴ」と女性英語ガイドに言ったらヘンな顔をされた。英語の「ソー・ロング」なのだが、もしかしたら臨終のことばだったのか。ガイドは「アディオス」と返事した。
 
 翌日、中華料理店の隣のテーブルにいたご夫婦が話しかけてきた。旦那が「ここの料理はどうか?」ときくので、「美味」と応えると、満足気にうなづく。彼は元ドイツ首相のコール氏によく似ていた。
南アフリカのケープタウンからリスボンに赴任した英国人銀行家。シントラ、カシュカイスが話題になり、「地獄の口」は俺に言わせてくれとばかりに「ポカ・ド・インフェルノ」と叫んだ口はいまにも裂けそうだった。
 
 「ほんとうの地獄は極楽にあるのでは」とよせばいいのに話すと、「君は作家か」と返す。コール氏によると、ユニークな発想だが、それは小説家の領分らしい。「バンカーは白黒はっきり分けるのか」と投げかけると、「その通り」と言った。
その後も話に花が咲き、コール氏はノリノリ。ホテルまで送らせてくれと言い、タクシーで帰ると言っても、タクシーを待っているあいだにホテルへ着くと言い張り、レストランの駐車場に駐めてあった彼の車で送ってもらった。
 
 リスボンの名所でおもしろかったのはマフラ修道院。日帰りバスではなく翌日、運転手付きドイツ製乗用車で行った。修道院付きのガイドは、「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネふうの顔つきとは裏腹に愉しい人で、院内は撮影禁止なのだが、小生が撮りたそうにしているのを察知したのか、「ノー・フラッシュ、ビー・クワイエット、ノーボディ・ノウズ、ゴッド、ノウズ」と予想外のことを言い許可してくれた。やったぜ、ベイビー。
 
 発見のモニュメントはエンリケ航海王子没後500年の1960年に建てられた。エンリケを先頭に、地理学者、天文学者、航海士、宣教師、画家などが思い思いのスタイルで、ある者は海の彼方を、ある者は心の内面をみる。彼らの表情はなぜか一様に苦悩に満ちている。
彼らはヒーローでなかったのか。23年前、若かった小生は衝撃を受けた。海に出た男たちは航海中、あるいは上陸後、不幸に見舞われた。生き残ってふたたび故国に戻ったのはわずかである。家族は決して彼らをヒーローと思わなかったろう。モニュメント制作者はそんな思いでつくったのではないか。
 
 だが一方でこうも思う。一攫千金を狙った者も、伝道師も、絵描きでさえ、自らの冒険心と知的探究心を満たすために旅立った。危険な旅になることはわかった上で、天命であると決意して旅立ったのだ。モニュメントはそのことを訴える迫力を持ち、風にまじって彼らの声が聞こえてきそうな気配がした。
 
 時間が経てば経つほど思い出は深まっていく。知っているつもりでいたのに、ほとんど知らなかったことを知り、旅を重ねて旅が見えてくる。自分にとってかけがえのないものであると思える日が必ず来る。心の風景がよみがえって、胸がいっぱいになるのだ。
 
          (未完)

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