2024年7月8日    幽囚の英国(2)

       1999年6月22日 コンウィ城から撮影したコンウィ川下流とラウンドアバウト
 
 英国は地図の国。どこの町や村でもその区域の詳細道路地図がガソリンスタンドに隣接するコンビニで売られている。A5サイズ20頁前後の小冊子型道路地図500円は便利。カーナビもスマホもない1999年、宿泊地や見学場所を探すとき役だった。
 
 A470を北に進み、A55の高架下をくぐって2番目のラウンドアバウトを過ぎるとボディスガスレン・ホールの掲示板が右手にあり、そこを右折すれば広大な敷地を有するカントリー・ハウス。近くにコンウィ城、遠くにスノードン山をのぞむ抜群のロケーション。
「幽囚の英国(1)」に記した通り、有名なカントリーハウスの2人分1泊2食税込みサマー・ブレイクスの料金は125ポンド(1ポンド180円)。アーリーモーニング・ティとボドナント・ガーデン、カーナーヴォン城ほか一ヵ所の入場料2人分込みの格安。
 
 ファックス予約したものの、半信半疑で宿に電話し、料金を確かめた。あれから25年、食事、部屋、庭園、従業員、ロケーション、すべてにわたって生涯のベストホテル。2000年も格安だったが2001年、倍になった。それでも安い。
 
 翌日コンウィ城へ。コンウィ川が湾にそそぐ景勝の地。宿から一つ目のラウンドアバウト(常に左折し時計回りに進まねばならない)を経て、CONWAY ROAD一つ目のラウンドアバウトをコンウィ川に向い、橋をわたるとコンウィ城へ4キロ半。
 
 上の画像はコンウィ城から北西方向を望遠レンズで撮影。コンウィ川、ラウンドアバウトなどが写っている。ラウンドアバウトは写真左下の矢印が示すように常に左に行き、時計回りに進み、自分の行きたい道を選ぶ。信号なし。
この写真のように小さなラウンドアバウトなら問題ないが、都市部近郊には半径100メートルくらいで、道路が8つ交差しているラウンドアバウトもある。行きたい道路を曲がりそこねたらまた一周。
 
 干満の差が緩やかな国では考えも及ばないけれど、コンウィ湾にそそぐコンウィ川下流の干潮時、船は干潟の船となって砂州に取り残される。数十艘の船が満潮を待つ光景は、まるで時間が止まったかのようだ。英国を旅して、知っているつもりでいたのに、ほとんど知らなかったことを知る。
 
 13世紀末、コンウィ城、ハーレフ城、カーナーヴォン城、ボーマリス城を築いたイングランド王エドワード1世は、ウェールズの侵攻を防ぐため建造したというが、ウェールズを奪ったのはエドワード1世で、土地を奪われた人々は奪い返すために戦った。ボーマリス城は途中で建造中止。
 
 コンウィ城の次はA470を9キロ南下しボドナントガーデンへ。広大な庭園は庭ごとにテーマが設けられ、単に庭というのではなく、桂離宮のようにさまざまな建物と庭がセットになり、互いに調和して美しい。バラ園は地下から地上2階まで空間と棚を生かした設計。キャナル・テラスと呼ばれ、紅白の睡蓮が咲く池も見事だった。
 
 ボドナントガーデンの落ち着いた雰囲気のレストランでランチ。それからカーナーヴォン城までA55〜A487経由で40キロ。バンゴールからカーナーヴォンまでのA487の途上、スレートが石切場に積み上げられた場所にさしかかる。かなりのスペースで、丘の斜面はぼた山に見えた。
19世紀に全盛期を迎えた石切場に没落の跡をひしひしと感じた途端、旅行前、夢にあらわれた光景がよみがえった。ぼた山そっくりの場所で、籠を背負った母がぼた拾いをしている夢だった。夢のなかで、「こんなところで何してるの、やめなさい」と叫んだ。
 
 カーナーヴォン城はハーレフ城、コンウィ城より見劣りする。英王室がプリンス・オブ・ウェールズ戴冠の地として豆に修復しているせいか劣化しておらず。13世紀の城らしくない。カーナーヴォンしかみていない人は保存状態がいいと評価するだろうけれど。
 
 小中学校を一緒にした9年制学校の少女数名が課外授業に来ており、日本人がめずらしかったのか寄ってきた。リュックサックを背負う少女たちは8年生、遠足だと言い、ひとりが「夫婦なんでしょ?」と話しかけてくる。
「親子に見えない?」と言うと、質問に質問で返さないでよといわんばかりのふくれっ面。女優のように可愛い顔が泣くぜ。遠足から帰ったらレポートを提出するらしい。城だけじゃおもしろくないから日本人のことも書きそう。
 
 1980年前後、マニラのホテル屋上プールで伴侶と泳いでいた。プールサイドの欧米系&アジア系混血少女が声をかけ、「親子ですか?」と尋ねたことを瞬時に思い出し、カーナーヴォン城の少女に「親子に見えない?」と言ったのだ。あのころは子どもに話しかけられた。
 
 気取ったり、虚勢を張る英国人とは出会わなかった。英国旅行の原点となった96年プラハ=カルロヴィバリ・バス旅の英国人5人も親しみやすく自然体だった。結局、遠足の少女は、初対面のアジア人との会話の糸口がつかめず、ほかに適当な文言が思い浮かばなかったのでそういう問いを投げてきたのかもしれない。
 
 A487を逆もどりし、バンゴールの手前を左折、1826年に架けられた吊橋メナイ橋(全長520メートル)をわたって、アングルシー島のボーマリス城はA545を5キロ北東へ進めば到着。
19世紀初めの設計なので、中央分離帯はあっても道幅が狭く、車1台通るのがやっと。英国をドライブして狭い道に慣れたはずなのに窮屈だった。復路メナイ橋を狭いと感じなかったのは、早く宿に着きたくて道幅が気にならなかったせいかもしれない。
 
 ボーマリス城の駐車場はメナイ川沿いのだだっ広い野原。入城刻限ギリギリだったからか、30代の二枚目係員が料金は要らない、夜は開放されているからと言う。「ボー・マリス」は「美しい湿地」の意。英国の男性は軽快で魅力的だ。
その名の通り周辺は湿地帯。未完成の城は城壁が厚く、高く、堅牢そのもの。ウェールズとの戦で戦費がかさみ、物資調達不足に陥ったエドワード1世は建造をあきらめた。夕刻で見学者は数名、低くたれこめる雲のせいか静寂と薄気味わるさに包まれ、幻想の人物が隣を歩いているようで、中世に逆戻りした気分。
 
 ボーマリスと関連のない学生時代、その人は隔週、新宿へ油絵を習いに行っていた。交流1年目だったか、「みたい?」ときくので「そうね」と応えるとみせてくれた。静物画は黄色い花と芥子色の壁。花瓶の色はおぼえていない。「暗さを絵に封じこめたな」と言ったら黙っていた。聡明な人でも影はある。人に見せないだけだ。
 
 彼女はダヴィンチの「最後の晩餐」について、「誰もが知ってるけど、何食べたのか知らないよ」と言う。「親が最後に食べた料理をおぼえている子はいないと思うよ。先立った夫や妻の最後の晩餐、おぼえている?」。
70年代の会話は生きている。うんざりするほどグルメ映像が氾濫する21世紀。家族の最後の晩餐を記憶にとどめる人間はいないだろう。
 
 ボディスガスレン・ホールに帰るころ陽は西に傾いていた。6月の英国は日没が終わっても暗くなるまでの時間が長い。明朝ウェールズに別れを告げヨークに向かう。紺色のマントに覆われた空、ライトアップされたコンウィ城、その遥か彼方、幽かに見えるスノードン山系。明日も晴れますように。
                                         
                    (未完)

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