2019年2月3日    西行の時代 白河法皇
 
 白河院は満76歳になってまもなく崩御されました。
院の威光は、「天下の政(まつりごと)をとること五十七年、意に任せ、法に拘わらず除目叙位を行ひ給ふこと、古今いまだあらず。威は四海に満ち、天下帰服す。幼主三代の政をとり、斎王六人の親となる。桓武以来絶えてなし。聖明の君、長久の主と謂ふべきなり」(「中右記」)でありました。
 
 白河院は専制君主に近い治世を敷衍したかにみえます。意に反した場合や勝手なふるまいにはそれなりの処分も科しました。しかしそれは、出仕を止めるとか解任するとかの軽い処分であり、ほとんど寛大な姿勢を崩さず、敵対者、背反者の一人たりとも殺めていません。その必要さえなかった。謀反も対立もなかったからです。
「薬子の変」(810)以来死刑制度は廃止され、1156年「保元の乱」まで346年間、死刑は執行されなかったという公式記録はあるのですが、公式のみが歴史にあらず、敵対者が病没と記録されたことを完全に否定できましょうか。
 
 平安末期を治める天皇、法皇としての品位、英明、尊厳、慈悲を示しながら、教養人たる態度を白河院は失わなかった。文化国家の長たる者のいわば当然の姿勢でしょう。強き者はおごらず、おだやかであるべきです。
 
 当時の公文書はすべて漢文で書かれています。漢文を読めなければ官位も下賜されず、国司叙任もなかった時代、高位貴族には専任の家庭教師がいても、伊勢平氏の平正盛・忠盛父子などの下級貴族は誰に字を習ったのでしょう。「中右記」、「殿暦」などの日記も漢文で書かれていました。
 
 戦国時代の武将の子息はおおむね僧侶に師事しました。彼らが漢字や荀子、孫子を学んだ15〜16世紀は、鎌倉期に生まれた新興仏教の末寺が地方に数多く建ち、そしてまた戦国大名は都から高名な学僧を招聘する財力もありました。
ところが平安末期にあっては、僧侶といえば南都六宗か、比叡山、高野山。東寺の真言宗僧侶、または10世紀に開かれた空也の浄土教僧侶。
 
 南都六宗は教理、宗論の学舎のようなもので、貴族の子弟に漢学を教えるような宗教ではないし、僧侶もお高くとまっています。天台宗も南都の仏寺への対抗心が強く、下級貴族の子弟に教える可能性のあるのは真言宗や浄土教の僧侶。真言宗なら東寺は洛内にあるので足の便はよく、漢学の素養ゆたかなを僧侶を高額で雇ったのかもしれません。
 
 下級でも富裕な貴族がそういう手段を講じるのは可能として、そうでない者はどうであったか。おそらく貧乏貴族にしても、平安末期から少ずつ台頭しはじめる関東・東海など地方の武士は無位無官。漢字を学べず、字も読めなかったはず。高位貴族のほとんどが、関東の武士は長い肉切り包丁を持ち、たまに鍬と鋤で田畑を耕す野蛮人としか思っていなかったでしょう。
 
 白河院の建築事業、造仏は常軌を逸しており、国司と民に著しい負担をかけたことは負の遺産。評価の高低差はいかんともしがたいところでしょうが、摂関政治を天皇(法皇)親政に変えた功績は大きく、「桓武以来絶えてなし」の歴史は変えられません。
 
 国司についてはいずれ詳しく述べる予定です。都から派遣された国司は地方豪族である郡司を監督し、行政司法などを司る権限を持っていました。都の官僚=貴族は地方の民と接する機会はなく、民と接点があるのは郡司と国司やその家人・郎等です。国司による行政が民の暮らし、税徴収に大きな影響を及ぼした。税負担を重くして私腹を肥やす国司は忌み嫌われたでしょう。
 
 院政ということばが有名になり、教科書に掲載されるのもむべなるかな。問題なのは院政に対する文科省・指導要領の評価と文言。学者専門家の意見がどう反映されるか、義務教育で教師が生徒にどう教えるか。摂関政治の中心にいた藤原氏の力が翳りをみせ、武士勢力が表舞台に登場し、鎌倉幕府成立へとつながる重要なターニングポイントです。
 
 幕末、薩長の対立により京都御所の機能が麻痺し、御所出入りの厨房調理師が廷内への入出が止められたとか。そのときお上(天皇)は「お朝はまだか」とおっしゃったそうです。すると、そういう状況をいち早く察知した京都の料亭が御所へ仕出しをした。通常の入口を避け、非常用の出入り口(御所の土塀の下)をくぐり抜けたといいます。
 
 白河院の崩御はさまざまな人間の生き方も変えてしまう。待賢門院璋子の女院という位階の高さ、白河院、鳥羽院(鳥羽上皇)とともに三院と並び称された女院の称号も有名無実となるのです。璋子は満28歳、しおれるには早い女盛りでした。
そのころ佐藤義清と名乗っていた西行はまだ満11歳、鳥羽院に仕える北面武士ですらなく、璋子の実兄・徳大寺実能邸で和歌の勉強中です。
 
 白河院の信仰は真言宗、天台宗両方に及び、しかし教義には興味を示さず、密教部分にのみ帰依したといいます。浄土教に関心がなかったのは、極楽浄土を信じていなかったからなのか、独自の宇宙観のなかでは極楽は宗教思想にほかならず、来世にあるのではなく現世にあると考えていたのか、確たる理由はわかりません。権勢を誇った藤原道長の子・藤原頼通が信じた浄土教は信ずるに値しないと考えていたのかもしれません。
 
 権力を背景としても何もかも手中にできるわけのものではなく、心の救済を得ることは至難であると思っていたでしょう。若いころはともかく、高齢になって魂の救済の得がたさを身にしみて感じることが多くなったはず。寺院建設、造仏、納経など四方八方かぎりを尽くしてもなお魂の救済は得られない。
「平家物語」の有名な文言は「鴨川の水、山法師、賽の目」なのですが、白河院が、そして後世、権力の座について長生きした者が一様に感じたことは、魂の救済ほど難しいものはないということであったのではないでしょうか。歴史の実相は、その時代を生きた人間の実態でもあります。そして、老境に入って心の裡に感じつづけたことが記録として残されることはないのです。
 
 何によって魂の救済はもたらされるのか。そういう愚問を発する前に、心おだやかな日々をすごすことが魂の救済をもたらすのかもしれないと考えてみましょう。心おだやかになることはしかし簡単なことではありません。
 

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