2024年11月11日    世界わが心の旅 
 
 海外を旅すると人から見られることもなく、自意識も薄らぎ、気取りも衒(てら)いも捨てて素の自分になれる。自意識過剰、もしくは気取った人間が見る景色と、そうでない者が見る景色は別物だ。
風景が本来のすがたをみせるのは見る者の姿勢や心情と関係があるのだろう。会社人間が費用を企業持ちで旅に出ても開放感と充足を得られるかどうか疑わしい。個人旅行であろうがツアー参加であろうが、自費で旅をしなければ満足感、開放感を得るのは難しい。
 
 そういう見方を払拭したのが1993年から約10年にわたって放送された「世界わが心の旅」だった。単なる観光ものではないので、だれが旅するかによって成否は決まる。過去をひきずっている人間、過去にこだわる者の旅は胸にせまる。
過去のすくない、あるいは未来を見て希望だけを語る者の感慨は味気ない。確たる希望もなく、自責の森をさまよっているうちに自責の念さえ忘れる高齢者の過去は鮮明だ。
 
 「世界わが心の旅」で記憶の奥底に残っているのは、木村尚三郎の「フランス 中世の街角」(1995年2月放送)、藤原正彦の「ポルトガル 父と子のサウダーデ」(1996年10月)、米原万里の「プラハ 四つの国の同級生」(1996年2月)、吉田蓑助の「ギリシャ 月光に舞う鷺娘」(1998年11月)。
 
 2024年11月7日、吉田蓑助の訃報が入って「世界わが心の旅」を思い出した。平成3年から7年間、人形浄瑠璃の義太夫をきき、人形遣いをみるため大阪日本橋の国立文楽劇場に通い詰めた日々。
すでに四代目竹本越路太夫は引退(平成元年)していたので義太夫語りの至芸をきけなかったが、越路太夫の同門・七代目竹本住太夫、九代目竹本綱太夫の義太夫、吉田玉男、吉田蓑助の人形遣いをみることができた。
 
 語り、人形遣いに客席ですすり泣く人が何人もいて、そこまで感情移入しなかったけれど何度も胸が震え、7年はまたたく間だった。大阪が日本に誇れる伝統芸能はまぎれもなく文楽である。吉田蓑助は主に女性の人形を遣う。「曾根崎心中」のお初、「仮名手本忠臣蔵」のお軽など。
 
 歌舞伎の女形はほんものの女性より女を感じさせることもあるのだが、蓑助の女人形はより繊細で切なかった。男性でも「菅原伝授手習鑑」の桜丸を蓑助が遣うと目が釘付けになった。
越路太夫は昭和の語りの名人、蓑助は平成の人形遣いの名人、古き昭和の雰囲気を保ち、舞台に江戸期の風を運んできた人々。盗めるものなら盗みたいと思った後進は多かったろう。
 
 米原万里の「プラハ 四つの国の同級生」もすばらしかった。ロシア語同時通訳としてペレストロイカのソ連〜ロシア時代、ゴルバチョフの通訳をつとめ、その後もエリツィンの通訳を担い、度々テレビに登場した米原万里はプラハの8年制ロシア語学校に9歳から14歳まで通っていた。授業はすべてロシア語でおこなわれ、米原は何が何だかさっぱりわからず、時間だけ過ぎてゆく日々が続く。
 
 同級生だった3人の少女はルーマニア人、ユーゴスラビア人、ギリシャ人。あれから31年後の1996年、ブカレスト(ルーマニア)を訪ねた米原万里は、同級生の両親に会ったが、娘はロンドンにいると知らされる。
そして二番目の級友に会うため夜行列車でブカレストから600キロ離れたベオグラード(ユーゴスラビア)へと向かい、12時間後、ようやくルーマニア国境を越えた。
 
 ベオグラードへ到着したら同級生はサラエボに引っ越したと聞かされる。人は自らの経験を深めるために新たな経験をする。徒労に終わるかもしれない経験だとしても積み重ねてゆくしかない。経験とはそういうものだ。
 
 当時は1991年から3年半続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか。幸いにもサラエボは戦禍地から離れていたが、級友のようなイスラム教徒は敵視されるか迫害をうけるかで、不穏の日々をおくる彼女に対して、状況も気持ちも把握することができない自分を米原は嘆くしかなかった。
「プラハ 四つの国の同級生」の最大のみどころは米原万里だ。率直で、勘がよく頭脳明晰だが、そそっかしく、楽しく、庶民的。ほかの人ならそれほど感動もなかったろう。
 
 ギリシャに住んだことのないギリシャ人同級生はロシア語学校時代、成績が悪く、特に数学はいつもビリ、0点のときもあった(と米原は回想している)。ところがプラハの名門カレル大学、しかも医学部に入学したと番組取材中に知らされる。
米原は、両親が裏口入学させたにちがいないと言い、カレル大学を訪問、成績表を見せてもらう。たしかに成績は悪かったが卒業し、ドイツでクリニックを開業している。彼女に会い、患者の8割はギリシャ人ということに米原は妙に納得。
 
 ロンドン在住の同級生ははたしてプラハにやって来た。ふたりの待ちあわせ場所は夜のヴァーツラフ広場。抱き合ったあと、ルーマニア人としての自分は10%か20%しか残っていない、ほとんど英国人になりきったと彼女は伝える。歩きながら会話をつづけ、ふたりが行ったのは天文時計。
 
 米原万里の「世界わが心の旅 プラハ」が放送された1996年秋、小生と伴侶は東欧〜中欧を旅した。プラハには4泊しただけだったけれど、10月初旬はもう晩秋の色が濃く、哀愁がただよっており、旧市街やヴルタヴァ川のたたずまい、カレル橋からのぞむプラハ城の遠望、街往く人々に魅了された。
先日、久しぶりに番組のダビングDVDをみた。アナログテレビ時代の映像。あのような番組は二度と制作されないだろう。才長け、深い経験をした制作者や出演者はすでに故人となったか、生きていても高齢となり、秀逸な旅番組の最後を飾った「世界わが心の旅」も追懐となってしまった。
 
 
           ヴルタヴァ川カレル橋付近からのぞむプラハ城


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