2019年2月13日    西行の時代 北面武士(2)
 
 白河法皇が「北面武士」という法皇直属の配下を創設したのは白河院が上皇となった1087年、そのころの北面武士は、「近臣として院御所に出入りすることを許されて御所の北面に伺候する者を総括してそう呼んだ」(角田文衞「平安の春」)といいます。
草創期の北面武士は「組織的でもなく、任務も明確ではなく、院の雑用を果たしたり、御幸に供奉(ぐぶ)したり」の用をするだけで、いわば白河院の非公式の供回り程度の存在でした。
 
 「有事のさいに招集され武装集団となったり、院の親衛軍としての役割を演ずるようになる」までには時間を要したのです。
北面武士がすべて武士であったのではなく、白河院政後期になると北面は上北面と下(げ)北面に分かれ、美川圭著「院政」には、「上北面には諸大夫(しょだいぶ)の家格の者が任じられ、北面武士といわれる者のほとんどは下北面に所属した」。
諸大夫とは「摂関家や大臣家に仕え、四位から五位の位階をもつ家柄・身分である。下北面はそれより下の身分となる」(「院政」)と記されています。
 
 平清盛の祖父・正盛は白河院の北面に伺候した下北面(の武士)で、「当時としては珍しく武門の出であった。正盛はその武力もさることながら、巧みな遊泳術によって法皇の寵を得ていた。1097年、故・郁芳門院(1076−1096 白河法皇の第一皇女)のための六条院に伊賀国鞆田(ともだ)村を寄進し、大いに法皇の歓心を買ったことは、ひろく知られている」(「平安の春」)。
 
 白河院法皇平氏の関係は、院が寵愛した祇園女御との関連でも知られており、そのうち詳しく述べねばなりません。正盛が建てた六波羅蜜堂(のちの六波羅蜜寺)へ法皇が御幸したことも数回あり、正盛は都に押し寄せる南都興福寺や北嶺延暦寺の僧兵を追い返し、法皇の一助となっています。
 
 法皇も平正盛・忠盛父子を重用したのは、そういうことのほかに、東国を基盤に勢力拡大をはかる河内源氏に対抗させるという目的があったと思われます。
それ以外にも法皇が頭を痛めていたのは寺院相互の争いで、延暦寺と園城寺、興福寺と多武峰寺との対立が激化し、押さえるには法皇配下の北面武士だけでは足りず、平氏の力を利用することが得策と判断したのです。しかし、そうした抗争鎮圧に乗り出した平氏の政治的進出は容認せず、抑制するいうところが法皇の政治力でした。
 
 しかし正盛の子忠盛は法皇の抑制策を巧みにかわし、下北面から検非違使、そして院(白河法皇)の別当(検非違使長官)に昇りつめ、鳥羽上皇の中宮・待賢門院の別当として近臣に侍り、ほかの平氏や源氏に差をつけるのです。
 
 平安期の貴族社会にはあなどるべからざる禁忌がありました。殺生すれば報いがあり、自分にはね返ってくると彼らは信じていました。天変地異を神仏の怒りと考え、あるいは人間の恨みが怨霊と化して祟ると考えた。
すべての皇族貴族がそう考えていたとは思えませんが、多くはそう考えていた。祈祷や呪詛がふつうにおこなわれていた当時、怨霊を信じない武士は単なる野蛮人と思われていたでしょう。
 
 武士にも信仰心はあったでしょうが、怨霊とか祟りを信じようとはしなかった。抗争や戦に死はついてまわることは経験ずみ、南都北嶺の坊主のたわごとに耳を貸すつもりなどなく、法皇の命とあればいつでも参上し、僧兵と戦う用意をしていました。院政は、僧兵の狼藉や地方の内乱を鎮圧するために平氏の武力を必要としていたのです。
 
 院政の膨大な財源は荘園からの税だけでは賄えず、平氏などの武門出身者や国司からの寄進に拠りますが、寄進の見返りに官位官職を授ける(成功=じょうごう)もおこなわれていました。
それら寄進による法皇庁の財政はきわめて豊かであり(そのぶん領民の負担は大きい)、前記「平安の春」には、「法皇が崩じたとき、財宝を納めた院の御倉は都に二百余ヵ所あったという(「中右記」)。法皇には、朝廷からの公式に寄せられた封戸があった。しかし、より大きな収入は、成功、年官年爵の制、ならびに荘園などによるものであった」と記されています。
 
 法皇麾下の院庁と武士の結びつきは騒乱鎮圧のみならず、強固な経済基盤での結びつきでもあったのです。
 

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