香港の高層マンション火災のめらめら燃えるニュース映像をみて、自分の身近で、知り合いの住むマンションが火災にあったような気分だった。香港は1980年代から1990年代半ばにかけて頻繁に行った。
香港島も九龍半島(中国本土)も山が多く、狭い平地に高層ビルが乱立しており、住宅のほとんどが高層マンションにならざるをえない。ビルとビルのあいだを縫うように道路が走る。
火災は九龍半島の北東部、大埔区(だいほく)の大埔(だいほ)にある高層マンション(階数は30階以上)の複数棟でおきた。六甲山のような山懐に近く、海にも近いロケーションは神戸を思わせ、マンションは築40年ほどということだが、地価が驚くほど高い香港ゆえ、日本の同経年の中古マンションとは異なる。
公営という報道もあり、情報出所は不明で、分譲か家賃か定かでない。1990年初頭、香港九龍半島先端の一等地ツィムサーツイ(尖沙咀)の地価(1uの単価)はすさまじかった。土地の売買は所有権ではなく地上権。東京銀座4丁目の地価が世界一高いというメディア報道は誤り。香港は銀座の2倍だった。
ツィムサーツイ、アドミラル(金鐘)、セントラル(中環)、ワンチャイ(湾仔)、コーズウェイ・ベイ(銅鑼湾)といった都心、金融街の賃貸ビルやマンションの賃貸料はバカ高。ペニンシュラ・ホテルBally香港支店の賃料は1980年代半ば、月額450万円くらいで、銀座の同面積店舗の3倍くらいだったと記憶している。
バリー香港支店長のサニーと80年代中ごろから10数年にわたって交流した。5歳年下の彼は80年代後半に結婚し、奥方のブレンダは一般的香港チャイニーズ女性よりやさしく、容姿にすぐれ、二枚目のサニーと釣り合っていた。
バリーの店長は行き始めの2年ほど秀さんが勤め、秀さんと小生は同い年。秀さんは香港バリーの管理職となり、デパートやビルの各支店を見回っていた。サニーと何度となくランチを共にし、聡明で気取らない奥方も一緒にあちこちで夕食を食べた。
ある日サニーが、「井上さん、深?(しんせん=中国)の見える公園へ行ったことありますか?」と尋ねた。ありません。それでサニーの車で深?へ向い、道中の見晴台で途中下車。眼下に数十棟の高層が見え、そのすぐ先は海浜だった。そこが大埔区。
サニーが「あのあたりのマンションに秀さんが住んでいます」と言う。「秀さんは自宅で麻雀しています」と言うので、「自宅で麻雀して、奥さん文句を言うのでは」と言ったら、「いえ、奥さんもマージャン仲間です」とこたえた。
「秀さんは恐妻家で、奥さんに逆らえない」とサニーは言い足す。「香港は恐妻家が多い」とも言った。「サニーは?」。「ウチはイーブンです」。サニーの家庭は話半分かもしれないが、秀さんはまるごと恐妻だろう。恐妻家は顔に出る。主体性のない引っ込み思案の顔なのだ。
1995年3月以来、香港に行っていない。サニーは94年の秋から95年のはじめに移住した。移住の話は聞いたが、時期も場所も知らなかった。サニーのいない香港はつまらない。あのころの香港は活気がみなぎっていた。
道ゆく人たちは希望に満ち、努力は報われ、出世の道も開かれていた。返還後、地主は英国から中国に代わり、自由は束縛され、汚職と賄賂が横行し、庶民の栄達の道も閉ざされていったのではないだろうか。
2020年、中国は「国家治安維持法」を施行し、「りんご日報」、「立場新聞」など中国政府の香港行政を批判していた新聞社を廃刊させ、記者を逮捕し実刑を課す。
報道の自由を脅かすのは中国政府にとって朝飯前、市民の批判の目を閉ざすのはオヤツである。そういう状況のなか、高層マンションの修繕業者に手抜き工事する輩が出てくる。返還以降、香港社会は悪化した。
20世紀の香港チャイニーズと21世紀に中国本土から移住したチャイニーズとの違いは、英国流公共の福祉を自覚しているか否か、そして注意力の差。チャイニーズ全般についていえるのは、公共の福祉に疎く、注意力散漫の人間もいるということだ。火災の原因は失火の可能性大。
1996年以前から住んでいた香港チャイニーズは嘆いているだろう。97年以降にやって来た中国人やその家族は自覚も責任感も足りないと。彼らより外国人労働者のほうがよほど責任感が強いと。
海外に移住した香港チャイニーズは思っているかもしれない。いずれこういうことが起きると考えていたが、とうとう起きてしまった。被害にあった方たちが気の毒でならない。事が起こったとき、強権的に押さえ込むことしかできない中国政府は香港から出て行け。その通り、出て行くべきは市民ではない、中国政府である。
閑話休題。1995年3月、秀さんはすでに退職しており、バリーの従業員は知らない者ばかり。1997年の中国への返還2年前から大移動が始まっていた。サニーの行方がわからないまま1年たち、小生の実家から1枚の絵はがきが転送されてきた。カナダのカルガリーからだった。
その日のうちに返事を書き、カルガリーのサニーへ手紙を出した。半年のあいだに3通の手紙を郵送したが、音沙汰はなかった。おそらく、カルガリーは仮の住まいで、転居したのだろう。絵はがきの消印から1年以上も経過し、サニーもあきらめたのだ。
実家に長期間とめ置かれたのは妹の養子夫が原因。小生は母と疎遠になり実家から足が遠のいていた。母の側近が絵はがきを発見し、母に伝え、転送してくれた。
サニーと仲の良かった小生に陰険な義弟は意地悪をしたのだが、絵はがきを処分せず隠し、そのまま忘れていたと思われる。義弟は健忘症だったから。
同時に思い出したのは、1975年に一般公開された米映画「タワーリング・インフェルノ」。サンフランシスコに建てられた地上550メートル、138階の超高層ビルが電気系統の手抜き工事によって火事となり、落成祝いの招待客のうち約200人が犠牲となる。冷静に対処しようとした人も結局パニックにならざるをえなかったろう。
建設責任者のひとりが予算通りの電気系統配線を軽視、規格外の部品を使ったことが火災の主因。招待客は、株取引の詐欺師(フレッド・アステア)、大富豪の未亡人(ジェニファー・ジョーンズ)、市長夫妻など多彩。
超高層ビルの社長(ウィリアム・ホールデン)はビル設計者(ポール・ニューマン)は式典中止を社長に要請するが、社長は消防隊が消し止めると拒否。火災の原因も被害を広げるのも人間。
消防隊のチーフ(スティーブ・マックイーン)とビル設計者の息詰まるやりとり、エレベーターに取り残された人たちの希望と不安、火災が徐々に上階へ燃え移る怖さ、中層階の一室で密会し、逃げおくれる男女、視覚障害の中年女性などを迫力満点で描き、上映時間165分はあっという間だった。
米国を代表するポール・ニューマン、スティーブ・マックイーンの共演、懐かしの映画「慕情」で共演したウィリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズ、タップダンスで有名な往年のスター・フレッド・アステアも出演するというので、映画ファンはみに行ったかもしれない。「慕情」の舞台は香港ツアー客の行かないトップ・オブ・ザ・ピーク。
「慕情」をみていない70歳以上の方たちも、主題歌「Love is many a splendored thing」は知っているだろう。映画音楽というジャンルを生むきっかけをつくった名曲で、さまざまな米国歌手が歌い継ぎ、映画音楽を集めたCDに必ず入っている。
「タワーリング・インフェルノ」はロングランとなる。終了予定時期を数ヶ月過ぎても上映しつづけ、それでも客足は鈍らなかった。そういう米映画は2本、「タワーリング・インフェルノ」と「オリエント急行殺人事件」(1975 ポワロ役はアルバート・フィニー)。
「ある愛の詩」(1970)もロングランだったらしいが、恋愛は敬遠しないのに恋愛映画を敬遠し、みにいっていない。1970年代は米映画の全盛期、うまい役者が目白押し。
学生時代に渋谷で暮らし、その後の2年を下落合で暮らした。下落合の賃貸マンションは西武新宿線「下落合駅」から徒歩4分。玄関ドアの数十メートル先の民家(隔てるのは空き地と畑)が火事になり、無風だったし、消防車がすぐ来たので、民家に隣接する住宅は焼けたが類焼は最小限にとどまった。
宝怩フ旧自宅マンションの隣にあった焼肉料理店から出火し、火元に燃えやすい液体があったせいか、炎の勢いはすさまじかったけれど、発火後、徒歩15分の消防署から消防車は5分もかからないうちに駆けつけ、あっという間に消火した。
消防署が近いと頼りになる。現在の住まいから消防署は徒歩8分(以前の消防署とは異なる)。自宅は住宅地区ではなく商業地区で、エントランス前の道路に日中せわしなく車が往来し、夜は激減する。商業地区の固定資産税は住宅地区より高いが、火災や急病を経験すると消防署は近いほうがいい。
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