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「大同類聚方」(だいどうるいじゅほう)は大同三年(808)、勅令によって全国の神社、豪族などに伝わる薬方を集めた医薬事典である。
大神(おおみわ)神社史料編集委員会が1985年ごろ刊行した百巻の写本「校注大同類聚方」の一部を書店で見つけた槙佐知子(1933−2023)は、「全身を電流が貫くような衝撃」と記している(「病から古代を解く」の「序にかえて」 新泉社)。
「序にかえて」の文章はいま読み直しても心おどる。なぜか。小生が神道にかかわってなじんだ記紀の神々、豪族が、きら、星のごとく登場するからだ。
同著「あとがき」で、1992年6月20日の朝日新聞夕刊に掲載された記事が紹介されている。「藤原麻呂(不比等の息子)邸跡が奈良市法華寺町にあり、そこで発見された木の樋(とい)が、日本最古の水洗トイレの遺構と判明。溝の土からベニバナの花粉が確認された」。
ベニバナは「大同類聚方」で煮つめて虫下しに使ったと記され、奈良時代にも用いられていたとみられると報じ云々。
1799年、「日本後紀」の記述と「大同類聚方」の内容に矛盾があるとして、流布された大同類聚方は偽書であるという説が唱えられた。槙佐知子によると、「1912年、土肥慶三著・世界黴毒史により後世の偽書と断定されて以来、歴史の闇に塗りこめられていた」(前掲著「あとがき」)。
1985年、槙佐知子の「大同類聚方全訳精解」(原文と現代語訳)が新泉社から上梓され、普及版・全五巻を1994年ごろ買った。槙佐知子の同著に対して菊池寛賞、エイボン功績賞が授与される。
故きを温ねて新しきを知る。消化器系の治療薬にツムラ(かつての津村順天堂)の漢方薬を処方する内科医が増えていた。小生も現在、葛根湯(かっこんとう)や補中益気湯(ほちゅうえっきとう)を処方され服用しております。
重度のアトピー性皮膚炎の伴侶が1990年以降、特殊な食療法を数年おこなっていた関係上、自然食品や古来からの薬用植物に詳しくなった。食用油は紅バナ油のみ、緑野菜は無農薬、水は天然水、加工食品もおおむねシャットアウト。
ベニバナはインド原産らしいが、「病から古代を解く」の「あとがき」に播磨風土記の記述として、「応神天皇の世には、わが国でもベニバナが栽培され」とあり、ベニバナの用途は駆虫薬のみならず、流感、咳、消化不良、関節痛、鼻血、神経痛、皮膚病など幅広く使われていたという。ベニハナは染料でもあった。
2026年1月8日にアップした「あっち向いてほい」の「医心方」にオットー・カロー博士(言語学者)と書き記した。博士は「医心方も大同類聚方も世界の文化財です。日本の出版社が刊行しないなら、英国かドイツで出版するよう、私が骨を折りましょう」と言ったそうだ。当時博士は79歳。
槙佐知子を励ましたのは博士だけではなかった。法学者の滝川正次郎(1897−1992)は、「私は大同類聚方が偽書だと長いあいだ思っていた。あなたの訳をみて、すべてが偽書でないことが判った。深謝です」との手紙を送った。
滝川正次郎は、赴任先の満州で戦後すぐにソ連軍の捕虜となり、10ヶ月の捕囚をへて帰国したが、7万冊におよぶ蔵書をソ連に没収された。極東軍事裁判の弁護人となり裁判を経験、後に地方史の研究に取り組む。研究意欲はおとろえず、90歳を過ぎてなお論文を書いた。
槙佐知子の孤独はそういう方たちに支えられ、ライフワークを続けることができたのだろう。熱意は熱意によって報われるのだ。
江戸時代中期の大分県で、断崖の沿道から転落する人馬を救うため、岩を掘って洞窟づくりをはじめた僧侶がいた。ひとりではじめたが、後に協力する村人、資金援助する藩があらわれ、30年余りの歳月をかけ「青の洞門」(耶馬溪の一部)を完成させる。小学生のとき絵本で読み感動した。
20年間、困難な作業に取り組み、古代医学書の現代語訳を成し遂げた槙佐知子の業績で思い出すのはコーンウォールのミナックシアターだ。1920年代初めコーンウォールに移住した女性ロウェナ・ケイド(1893−1983)はミナック岬を100ポンドで購入、崖の上に家を建てる。
1929年ミナック岬での野外公演「真夏の夜の夢」が大好評で、公演にかかわったロウェナは、劇団が「テンペスト」の公演を決めると、崖の上に舞台と客席を作りたいと申し出る。ロウェナと2名の助手は手仕事で劇場づくりに着手(1931−32)し、1932年「テンペスト」を初演。夜間照明は車のヘッドライトである。
そのときの模様をロウェナは、「庭師ともうひとりのコーンウォール人がバターを切るように巨大な岩を切り分けた」。「割れた岩のいくつかは海に落ち、一歩ふみはずせば27メートル下の海に落下する」と記す。崖を登るために鉄格子を固定、少しずつ移動した。
基礎工事が終わったあと、ロウェナはひとりで残りの人生を劇場(ミナック・シアター)づくりに捧げた。1950年代、ナショナル・トラストに支援を求めたが得られなかった。劇場部分も客席も海岸の土砂をまぜたセメントで作られている。ロウェナそれを袋に入れて運んだ。
彼女は古いドライバーを使って至るところに絵模様、劇のタイトル、日付を刻み込む。1976年ミナック・シアターを慈善団体に寄贈し、その後もひとりで劇場の改修にいそしみ、1983年90歳の誕生日前に亡くなった。槙佐知子も89年の生涯だった。
槙佐知子やロウェナ・ケイドの業績を他者は偉業と評す。当人はどう思っているのか。完遂するまで生かしてくださいと祈る気持ち、天が見放しても自分は自分を見捨てないという決意、孤独や誤解に耐え、乗り切る強い意思。古人に対する思慕、対象へのゆるぎない愛。持続力は持続してこそ養われる。
槙佐知子は栄誉を与えられたが、ロウェナ・ケイドは記憶に残されただけだ。記憶はいつか消えてゆく。だが演劇が上演されなくなったとしても、ミナック・シアターが存在するかぎりロウェナは生き続ける。記憶は継承されるのである。槙佐知子は生前、思ったかもしれない。全訳に挑み完遂し出版された、本望を叶え、受賞は余録にすぎない。
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