2019年2月27日    西行の時代 出家前
 
 佐藤義清(さとうのりきよ=西行)の出自、家系については多くの書が明らかにしています。
藤原北家の祖は藤原不比等の子・藤原房前(681−737)といわれており、房前の孫・藤成の系統には「平将門の乱」(939)で活躍した俵藤太(藤原秀郷)がいます。秀郷の子孫が奥州藤原氏で、また別の子孫が佐藤義清の家系へつながっているのです。
 
 佐藤家の官職・左衛門尉(さえもんのじょう)は天皇行幸の供にあたる武官で位階は低く六位でした。「台記」(藤原頼長)に記された「家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり」に関しては後の稿にゆだねるとして、佐藤氏は紀伊国粉河寺の南西部の農地(荘園)を預かり、経営を任されていました。荘園経営によって財力をたくわえるというのは、国司や受領などの一般的手法です。
 
 上記の紀伊国にある荘園は徳大寺家が所有しており、佐藤義清は「古今著聞集」巻15によると「西行法師、(中略)徳大寺左大臣の家人にて侍りけり」で、徳大寺家は和歌の家として名高く、十代の佐藤義清が歌を学ぶ環境はととのっていました。
 
 義清の父佐藤康清は息子の官位取得のため白河法皇の院庁にはたらきかけ、当時の定石どおり成功(社寺造営金を院庁に寄進する見返りに官位を授かる)によって義清は正六位上・兵衛尉(ひょうえのじょう)に任官されます。佐藤義清、満17歳(1135)、徳大寺実能(さねよし 1096−1157 待賢門院璋子の兄)の随身、次に鳥羽上皇の下北面となります。
 
 鳥羽上皇(1103−1156)の中宮・待賢門院璋子(1101ー1145)を初めて身近で見たのはそのころであったと思われます。璋子は崇徳天皇の母として女院の称号を与えられていました。
上皇の住まい、あるいは女院(璋子)の住まいかのどこか、渡り廊下などの庭に侍る十代の若者にとって、艶麗この上ない30代半ばの美女はさぞ魅力的であったでしょう。一目惚れということならそんじょそこらにあるでしょう。しかし魂をゆさぶられるほどの出会いはまれです。
 
 月の光かがやく仲秋の夜、利発な美女は一瞬で義清の心情を察知するのですが気づかないふりをしたでしょう。見あげる顔と見おろす顔。女院の侍女が、「歌の才に長けた若者で、実能さまの家人です」と言う。
佐藤義清は歌に秀でているだけでなく、蹴鞠や流鏑馬(やぶさめ)にも才能を発揮(「吾妻鏡})し、すでに鳥羽上皇からも注目されていました。
 
 鳥羽上皇は女院に仕える女房の何人かに手をつけて懐妊させ、女院は平気であったとしても、満15歳になる崇徳天皇(女院の長男)は苦々しく思っていたにちがいなく、権中納言程度の藤原長実の娘・得子(美福門院 1117−1160)が上皇によって過度の寵愛を受け、「閨房絶える夜なし」となっていることに対して不愉快だったのではないでしょうか。
 
 得子の肖像画が伏見区竹田の安楽寿院にあるそうです、角田文衞「待賢門院璋子の生涯」に、「かなり忠実に得子の容姿を伝えたものと想定される」と記されていますが、同書に掲載された画像をみるかぎり、得子は不美人どころかぶさいくというほかありません。女院のような絶世の美女に飽きると醜女に魅せられるのかもしれません。A級グルメがD級グルメになったようなものです。
 
 34歳の女院と較べて得子に魅力があったとすると、若さ(18〜19歳)以外に32歳の鳥羽上皇を陶酔させずにはおかない肌と秘所を持っていたのではないかと推測するのはB級友グルメの勘ぐり。
 
 祖父白河法皇が権勢をふるっていたころ、鳥羽天皇は風下に立たされ、表向きは平静をよそおっていても、天皇として思うような政事ができず、1129年法皇が崩御してまもなく鬱憤をはらすかのごとく勢いをえます。
少女時代の得子が鬱屈していたかどうかを裏付ける資料はなくても、屈折していたのは明らか。彼女の後の行動をみれば思慮に欠け、浅はかであることもうなづけます。それまで会ったことのないような頭の軽い、肌の合う女性に鳥羽上皇が溺れたのは真逆の欲求かもしれません。貴種、珍種を溺愛する。
 
1139年、得子が男児(後の近衛天皇)を出産する。かつて白河法皇が鳥羽天皇に退位をせまり、女院の子(父は白河法皇)の崇徳天皇を満3歳で譲位させたように、1142年、得子の子・近衛天皇を満2歳で即位させると女院と得子の地位は逆転。得子すなわち後の美福門院は目障りになる人々を貶め、追い落としてゆきます。あたかも自己の出自の低さに仕返しするかのごとく。
 
 鳥羽上皇が法皇、崇徳天皇が上皇となっても、性悪しく権勢欲の強い美福門院がのさばっていては、そしてまた法皇、上皇それぞれに利害の異なる側近がいれば、法皇上皇も何らかの影響を受けずにはいられない。摂関家も関白忠通と、藤原忠実&頼長の対立の兆しがみえはじめます。
 
 佐藤義清は徳大寺実能とその縁者を通じて鳥羽上皇の歌会に参加したようで、1137年、満19〜20歳ごろの義清の歌は、
   「君が住む宿の坪をば菊ぞかざる 仙(ひじり)の宮とやいふべかるらん」で、上皇の住まいの庭に植えられた沢山の菊の花を見て、ここは上皇の仙洞御所(譲位した上皇や法皇の御所)なのだから、仙人の住まう「仙の宮」と歌っています。
 
  鳥羽法皇はその一年後も徳大寺実能と佐藤義清を供にしてお忍びの御幸をし、一方で崇徳上皇とも歌を通して交流があり、女院(待賢門院璋子)の夫(鳥羽法皇)、子(崇徳上皇)と義清は前世の縁で結ばれているかのような間柄であったのです。
しかし、そうした状況に義清が満足するかどうかは別のことに属するでしょう。実能の心遣いに感謝し、鳥羽院の好意に感動しても、心を占めていたのは違和感だったと思われます。
 
 貴人にとって歌は優雅な遊びでしかなく、固定観念にとらわれない義清とは相容れないものがあったのです。雅が魂を震撼させることはなく、森羅万象にこそ魂と同調する何かがある。孤独であっても卓越した人間特有の感じ方でしょう。
 
 法皇や高位貴族のなかに流れてゆく時間は、義清が過ごすべき時間と同調するわけもなく、生き方の一部でさえ彼らと共有しうるものではありません。感動は長続きしない。が、感動はよみがえることがあり、歌になる。
 
 身分は天地ほどの差があるとして、歌を介して交流を深めていけば互いを尊敬し認め合うこともできるはずですが、佐藤義清は孤高の人、人の上に立つのも、人の下に立つのも避けたいという性質なのです。
自ら掲げた目標の高さにもがき苦しみ、高貴な人々に対して崇敬の念を持ちつつ貴族社会になじめず、内奥の自己嫌悪と戦っていたとしても、それらが義清の人間像を形づくり、哀歓から歌が生まれるのであれば歌人として生きていかねばならなかった。

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