いつのころか高木美帆の面立ちは崇高になっていた。2010年、中学3年生15歳でバンクーバー五輪の代表選手となった。それまでの国内大会でほとんど負け知らずの彼女はバンクーバーで敗北の痛みをいやというほど知った。1000mは最下位(35位)、1500mは23位。
童顔の15歳は魂の抜け殻状態。パシュートは小平奈緒、田畑真紀などと共に選出されていたが補欠。競技に出させてもらえず、パシュートは銀メダルだったが、高木美帆はメダル授与されなかった。
高校入学後、ジュニア大会で連勝に次ぐ連勝。2013年、大学入学後もユニバーシアード1000mで金メダル獲得。しかし、2013年12月の代表選考会で好成績を残せず、2014年ソチ五輪代表には選ばれなかった。
いつ到着できるかわからない長い道のりを進み、過酷な練習を重ねるうちに練習が目的化する。試験が終わっても解放されない受験生の心境を説明できても、体力、気力の限界に挑む選手の気持ちをだれが知ろう。
知っているのは、五輪に挑戦したスケート選手、そして共に五輪を戦ってきた姉・高木菜那だけかもしれない。修練に励み、氷上で泣かず、布団に入って涙を流す。
2015年から国内外で連勝し、顕著な記録を打ち立てていたにもかかわらず、高木美帆の顔やコメントに晴れやかさはなく、自重に終始し、会心の笑みはなかった。
2017年12月、オランダ・ヘーレンフェインでおこなわれたワールドカップの団体パシュートで姉の菜那、佐藤綾乃と世界新記録で優勝したとき笑顔を見せてくれた。しかし高木美帆にとって記録は単なる過去にすぎない。
中学3年のときバンクーバーで経験した口惜しさがトラウマになっていたとも考えられる。スポーツ選手は立ち直りが早い、早くなければ次ぎに進めない。過去を捨てていると発言し、行動した。
先達は言う、自分を信じなさい。自分を信じて頂点に立てる人は幸いなり。数千時間の修練を積んでもなお自分を信じず、刹那で勝負してきた者にしかわからない世界。
ライバルも過酷な修練を乗り切って勝負に賭ける。信じてしまえば止まるという人生観。ほんとうにこれで十分なのかと懐疑の念を抱くから続けられる。高木美帆はそういう人ではないだろうか。
バンクーバー五輪の屈辱的な敗北から8年、雪辱のときがやってくる。その日のために練習を積み、競技で勝利してきたのだ。2018年2月、平昌五輪の1000mで銅メダル、1500mで銀メダル。スピードスケートの銀メダルは日本女子初。なんでも初の好きなメディアのまねみたいで気分はよくないけれど、高木美帆の銀はまことに爽快だった。
2017年のワールドカップと同じメンバーを組んで平昌五輪の団体パシュートで金メダルを獲得(佐藤綾乃はコルティナ五輪も高木美帆と団体パシュートに出る)。
もう誰にも高木美帆の躍進を止めることはできない。その後、自分を信じない主義をストップさせたか、まだ続行しているのか、数分の刹那が何度となく続く。勝負も表彰台も刹那だ。
それからの活躍は逐一述べるまでもない。みなさんの記憶に留まっているだろう。2025年、高木美帆のワールドカップ勝利数は清水宏保、小平奈緒の記録とならび最多(34勝)となる。その6日後、35勝目をあげ、最多勝記録をぬりかえた。
記録はぬりかえられるために存在する、とクチにすれば頓馬なメディアみたいでクチには出さないが、記録なんて寺社仏閣のおみくじで運よく当てた大吉くらいにしか思っていないのではないか。
高木美帆は孤高のハンターである。日本流にいえば武者修行の剣士。靴底にそなえる2本の剣。高木美帆のスタート時の構えは剣士の構えである。真剣勝負を終えたときの憔悴した顔をご覧じろ。皮を斬らせて肉を斬る、肉を斬らせて骨を断つ。剣士と異なるところはない。
意味不明だと感じる方たちに言ってさしあげましょう。高木美帆の挑戦は、肉を斬らせて骨を断つほど困難であると思えるのです。肉体も魂も捧げているようにしか見えない。
フィギュア女子では鈴木明子のように24歳でバンクーバー五輪出場、28歳でソチ五輪と、言葉は適切ではないと思うが「遅咲きの花」はいる。フィギュア選手の低年齢化が常態となる中、鈴木明子は後進の20代前半〜半ばの選手に希望を与えた。
コルティナ五輪フィギュア女子のテレビ中継で鈴木明子は選手時代と変わらず、淀みなく明るい調子で、当意即妙に解説する。スケートだけでなくスキー競技の解説者の話もわかりやすく、競技中の選手のこぼれ話も紹介して愉しい。
高木美帆はそういう点である種異端かもしれない。彼女の言葉は過ぎこしかたを考えさせ、想像させる。高木のスタート地点の構えは剣士である、しかし滑り出すと意外にも花となる。
彼女のフォームはほかの海外選手と較べて美しい。練り込まれた美。流れるような美しさ。スピードスケート名選手・岡崎朋美もきれいな滑りだったが、高木美帆のフォームは岡崎を上回る流麗美。
人は彼女を求道者と言う。道を究める者の特長は力強さだけではないだろう。道を究めようと志す者は常に孤独である。氷上の高木美帆の動きが静止しているかのような一瞬、孤独の花は咲く。最後のコーナを回り、直線を向く寸前まで咲いている。氷盤を去る日がきても記憶に残る選手なのだ。
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