2019年3月17日    西行の時代 漂泊の歌人
 
 1140年秋、出家した佐藤義清は西行と名をあらため、現在の京都東山区の円山公園界隈に庵を構えました。宮廷に侍る廷臣の生活に未練はなくても、都に対して未練たっぷりの彼が東山に居を定めたのは当然というべきでしょう。
出家翌年の春まで西行は寓居で歌会をひらき、山家集に「世を遁れて東山に侍りけるころ、白川の花盛りに人さそひければ罷りて、帰りて昔思い出でて」と記して、「散るを見て 帰る心や 桜花 むかしに変る しるしなるらん」と詠んでいます。
 
 その後西行は鞍馬山に隠遁。歌会は他者と自己を過剰に意識し、心を解放できないと思ったのかもしれません。洛中に住み未練がましく歌会にいそしむ暮らしを打ち払い、都から遠い鞍馬へ移住するのも一計と考えました。
そのあたりの状況は「山家集」冬歌に「世をのがれて鞍馬の奥に侍りけるに、筧(竹を割って泉にかけ渡し水をひく樋)の氷りて水もうでこざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて詠める」と述べ、「わりなしや 氷る筧の 水ゆえに 思い捨てて 春の待たるる」と詠みました。
 
 洛中で生まれ育った西行にとって奥山の冬の暮らしは想像以上、住居にひかれた水が凍ってしまえば、付近の河や池まで水を汲みにいく必要があります。鞍馬の村人が「春になるまで」と話していたのはこのことかと、経験して初めて理解するのです。
それからまもなく彼は嵯峨野に移って草庵を構えます。二尊院の近くに草庵跡があるというのですが、二尊院山門前の小道を数十メートル南へ行くと「百人一首公園」があり、そのあたりと思われます。
 
 「山家集」には晩秋の法輪寺に参籠し詠まれたという小倉山六首の歌が載っており、そのなかの「山里は 秋の末にぞ 思ひ知る 悲しかりけり こがらしの風」や、「暮れ果つる 秋のかたみに しばし見む 紅葉散らすな こがらしの風」は説明不要のわかりやすい歌です。
嵯峨野は西行にとって束の間の安住の地でした。紅葉は西行、こがらしは世間。嵯峨野のこがらしは風当たりが強いわけでなく、「散らすな」は詠嘆というよりため息。散らすなと言いつつ、散って落下する紅葉も美しいと感じる晩秋のひととき。
 
 西行は山里に暮らすさみしさ、都を慕う気持ちを鶯になぞらえて詠んでいます(山家集)。
「鶯の 声ぞ霞に 洩れてくる 人目乏しき 春の山里」。 「鶯は 谷の古巣を 出でぬとも わが行方をば 忘れざらなん」。
 
 そういう気持ちの一方で西行は、「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける」と詠んでいる。いい歌です。都への思慕、人恋しさはあるが、おおぜいの都人が花見に押しよせ、静寂を破るのは迷惑と言っています。寂寞も避けたいし、賑わいも避けたい。私たちは相手にそうあってほしいと望むのではありません。そうあってほしくないと望むのです。
 
 漂泊の後、西行は自分自身を見いだすでしょう。花鳥風月は外界にあり、しかも内界にあると気づく日がいつかやって来ます。自らが花となり、鳥となり、月や雲、風になるのです。自意識過剰も説得も抗争もない世界。森羅万象を愛でながら過ごす日々。洗練と卓越の母は経験と研鑽です。そして何の花かわからない花となるのです。
 
 
 坂東玉三郎が次のように語っています。
 
 「舞踊の基本は人間の身体がどう動けるか、どのような流麗な動きができるか、流麗でありながらいつ止まれるかです。地球の引力との関係。引力があるから人間が立っていられる。引力にしばられている魂と心が一瞬でも解放されたのではないかと思い、踊る。しばられているものから解放されることが踊りの楽しみなんじゃないでしょうか。
 
 重力がなくなり、ふわっと浮いているのかもしれないというところに踊りの美しさが出てくるような気がする。躍動感や情緒的なもの、音楽に乗ってくると人間の希望とか憧れが見えてくる。それが踊りということになるのでは。
歌詞が飛んでいくから踊れる。歌と共に飛んでいくというか、詩の心を持って振りを連ねていくというか、物語として語ることのできない和歌の世界に自分の魂が入っていくということが大事です」。
  (NHK Eテレ 2019年3月15日放送 「にっぽんの芸能 伝心〜玉三郎かぶき女方考〜舞踊・鷺娘」)
 
 
        嵯峨野 百人一首公園


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