2019年3月26日    西行の時代 みちのく(1)
 
 出家遁世した1140年から1143年初めまで洛中洛外を転々としていた西行は一転して1143年初秋、25歳になって陸奥、出羽など東北へ旅立ちました。みちのくの旅を思い立ったのは、約150年前、みちのくを旅した能因法師に因むということもあったかもしれませんが、女院・待賢門院璋子の身辺でおきた出来事に関わっているとみてよいでしょう。
 
 1140年以降、西行と所縁(ゆかり)ある女院、天皇の行く末に暗雲が立ちこめます。事の発端は「西行の時代 出家前」で述べた鳥羽上皇と、鳥羽上皇の寵愛を受け、「閨房絶えることなし」といわれた美福門院得子(なりこ)に始まる。
1139年5月、美福門院が皇子体仁(なりひと=近衛天皇)を産むと、その3ヶ月後、鳥羽天皇は体仁を崇徳天皇の養子にし、その上で皇太子として立太子させました。
 
 そのあたりの経緯について角田文衞「待賢門院璋子の生涯」には、皇子体仁の「生母は后でも女御でもなく、崇徳天皇と中宮・聖子(きよこ 藤原忠通の娘)の養子にするという苦肉の策であった。この未曾有の策謀は、急速に得子の側に傾いていった関白・忠通の演出ではなかったかと推量される」と記されています。得子は皇子を産んでまもなく(1139年6月)正式に女御の地位を得ました。
 
1141年12月、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位するよう言い渡し、満2歳の皇太子(体仁)を即位させます。美福門院は喉から手が出るほどほしかった皇后の座にすわったのです。体仁が生まれた翌年(1140)、崇徳天皇と寵妃・女房兵衛佐(ひょうえのすけ)とのあいだに重仁が誕生しますが、鳥羽上皇の意を受け重仁は得子に引き取られます。
 
 そのような関係が成り立つのも妙なのですが、おそらく鳥羽上皇が四方を丸く収めようとした結果でしょう。かつて白河院が鳥羽天皇に譲位をせまり、待賢門院璋子の産んだ子を天皇(崇徳)に即位させたように、鳥羽上皇も同じ轍を踏みました。
しかし鳥羽上皇がそれほど単純な資質しか持っていなかったのでしょうか。寵愛した女の産んだ子かわいさに目がくらむような人間だったでしょうか。
 
 当時の政権争いは、絶対的権力を保持していた白河院政時と較べると複雑な状況下に置かれていたはずです。鳥羽上皇が崇徳天皇に譲位をせまる背景に関白家などの意思がはたらいていたと考えても不思議ではないでしょう。
 
 璋子の産んだ男子は、崇徳天皇の弟雅仁親王(1127−1192 後の後白河天皇)がおり、雅仁は鳥羽上皇の実子で近衛天皇より12歳も年長です。雅仁親王はそのころ遊興の徒として有名人となっており、特に今様(当時の民謡もしくは流行歌)に没頭する日々に明け暮れていました。
今様などを集めた「梁塵秘抄」(平安末期の歌謡集)に「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん」という歌詞があります。雅仁親王の遊び相手は中位の貴族から市井の男女、端女、遊女まで多岐にわたり、「鳥羽上皇からも天皇の器でない」(「愚管抄」)とみなされていました。
 
 1141年12月、崇徳天皇の譲位に先立ち、「関白忠通は、体仁親王は崇徳帝ならびに中宮聖子の養子であるから、懸念なく位を譲られるようにと崇徳帝に奏上した。安心された崇徳天皇は、位を譲って宣命をご覧になると、そこには当然『皇太子』とあるべき代わりに『皇太弟』と記されていた。崇徳帝は、こはいかにと愕き、鳥羽上皇に恨みを抱かれたという」(「愚管抄」巻第四)。
 
 すなわちこういうことです。皇太子への譲位であれば鳥羽上皇の崩御後、院政を司ることはできても、皇太弟への譲位なら院政の扉が開かれることはないのです。忠通に一杯食わされたのですが、崇徳天皇は裏で糸をひくのは得子であり、鳥羽上皇も得子の策謀を承知していると思い込みます。
鳥羽上皇の立場なら陰謀をめぐらす必要はありません。そんなことをしなくても意思は通ります。が、忠通と得子が組んだとすれば上皇は蚊帳の外。忠通の単独犯行かもしれませんが真相は闇。角田文衞「待賢門院璋子の生涯」に次のような一文が記されています。
 
 「およそ平安時代における藤原氏の氏長者を通じて、その悪辣な策謀をもって知られる双璧は、忠平と忠通であった。これら二人は、表面は篤実であって、言動に率がなく、なんら指弾されるような隙を見せぬ点で共通している」。
 
 美福門院得子の台頭は待賢門院璋子の凋落と同時進行。得子の子・体仁が近衛天皇として即位(1141年12月)した翌年1142年正月、待賢門院に仕える源盛行と妻嶋子に、「待賢門院の仰せで美福門院を呪詛した」(「百錬抄」 13世紀末の史書=公家の日記と記録を編纂)という嫌疑がかかり、二人は土佐国へ流罪となります。
「盛行が嶋子に巫女の朱雀を召し出すよう依頼し、広田神社(摂津国武庫郡広田郷=兵庫県西宮市)において巫女は鼓舞跳梁、得子を呪詛したというのです。
 
 百錬抄に「待賢門院、仁和寺御堂(法金剛院のこと)において御出家」との文言が出てきます。百錬抄の文言はあたかも待賢門院が源盛行夫妻に呪詛を依頼し、そのことが発覚したので出家せざるをえなくなったと伝えるかのごとくです。
複数の事柄を結びつけるために偽りの文書(日記など)を作成する。あるいは文書を改ざんする。古来より現在まで官僚がおこなってきた手口ではありませんか。官僚のトップにいたのは関白・藤原忠通です。
 
 一連の事件と璋子の出家を知った西行は愕然としたにちがいありません。「西行の心月輪」(高橋床次著)に、「西行はただちに動いた。藤原頼長の日記『台記』の康治元年(1142)3月15日にこう記されている。『西行法師来りて云ふ。一品経を行ふに依りて、両院以下、貴所は皆、下し給ふなり。料紙の美徳を嫌はず、ただ自筆を用ふべし』と。余、不軽(ふきょう)を承諾す」と書かれています。
   「不軽」=常不軽菩薩。法華経の教える菩薩。釈迦の前世のすがたとされています。上記の不軽は不軽品(ふぎょうぼん)の意で、大意は、「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢(驕慢)せず、所以は如何。汝等皆菩薩の道を行じて、まさに作仏(さぶつ)することを得べし」。
 
 西行は一品経(法華経二十八章を総勢28名が各々自筆で写経する)勧進を遂げるため、都の隅々を訪ね歩きます。璋子の出家に仏の加護を乞い、仏道に帰依する璋子の加護を強く願う気持ちがあったと思われます。両院とは鳥羽上皇と崇徳天皇。
両院に勧進した後、璋子の実家・徳大寺家へ行き勧進をすませ、さらに頼長のもとへ走り、全行程を18日で終了した。
 
 両院や頼長が西行をどのようにみていたか、「貴所は皆、下し給ふなり」、「余、不軽を承諾す」の文で明らかです。西行はある種特別な存在であり、特に頼長は西行の魅力を熟知していたのではないでしょうか。
西行は雲の絶え間の月のごとくあらわれ、皆は依頼を承諾し、それを確かめて西行は白虎のごとく去りました。頼長も思わず書き記さざるをえないほど見事でした。台記に記したからこそ、あらわれたことも、跡形も残さず去ったことも知りえました。当然ですが改ざんされた形跡なし。
 
 璋子は1139年、満38歳のとき法金剛院に三昧堂を建てていました。いずれは法金剛院に移ると思っていたからです。が、予想より早くなったのは思案外でした。
白河法皇の下で栄華をきわめた璋子の嘆きはいかばかりであったか。そして、忠通の計略にはまってしまったと気づいた崇徳天皇の憤怒は想像に余りあります。保元の乱(1156)の遠因はそこにあってほかにありません。
 
 できることすべてを終えた西行は、鳥羽上皇が出家して法皇となり(院政に着手)、崇徳天皇が上皇になったこと、法皇と上皇の交流が続いていること、璋子が法金剛院で無事余生をおくっていることを見届け、みちのくへ旅立ったのです。
 

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