2019年4月1日    西行の時代 みちのく(2)
 
 堀田善衛の言を借りると、「悲僧悲俗を旨とする」のが西行です。1144年都への思いを断ち切るようにみちのくへ旅立ちました。世のしがらみからのがれ、自ら納得できる道を選び、自然と同化したいと願っても容易なことではできません。
 
 道に果てがないのは人生に完成がないことと相似ているでしょう。歌は人間を自然になぞらえる。花鳥風月を詠むのは、花鳥風月のありようが人間のありようのごとく感じられるからで、和歌にものがなしさを託すのは、一生は苦悩と歓喜のあいだに横たわっているからです。
西行の魅力をみちびきだしたのは未知への旅であり、旅は思索をはぐくみ、思索は旅をもとめるでしょう。その果実を西行は歌で表現しました。歌いつづけて、森羅万象の魂が西行に宿ったのかもしれません。天の知らしむるところです。
 
 多くの歌人が感慨にふけったという白河の関で能因法師は「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」と歌っています。宮城県多賀城市に「おもわくの橋」という橋があります。安倍貞任(前九年の役 1061−1062)が村娘・おもわくに魅せられ、橋をわたって娘のもとへ通ったという伝承が残る橋。
 
   踏まま憂き 紅葉の錦 散りしきて 人も通わはぬ おもはくの橋
 
 平泉到着後まもなく雪の舞う衣川と、うそ寒い晩秋の風景を目にした西行は次のように詠みます。
 
    とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河見に きたる今日しも 
 
寒さと寂寞を較べれば、寂寞のほうが身にしみるという思いが「心もしみて 冴えぞわたる」。 「山家集 雑歌」に撰入された「世の中を そむきはてぬと 云ひおかむ 思ひしるべき 人はなくとも」や、「世をすてて 谷底に住む 人みよと 嶺の木のまを 出づる月影」、「夕されや ひはらの嶺を 越え行けば 凄くきこゆる 山鳩の聲」と同じように凛としているけれど厳しい歌です。
 
 凍てつくような衣河に何色の冷たい秋を西行は見たのか。凡夫なら青緑、群青、紫、灰色、黒、茶、白などせいぜい10色まで。西行の目には20色以上見えたでしょう。その上で「心にしみて、冴えぞわたる」なのです。
色は時間の推移とともに変化するし、空模様、光と影のぐあいによっても微妙に変化します。冴えぞわたる一瞬が心の風景となる。衣河を立ち去っても、一瞬を刻印していれば、時が過ぎても歌は生まれます。
 
 ルノワールやモネが風景に見た色が何色になったかわからないとして、目に映る色をつくるためにパレットに何色もの絵の具をおき、それらをまぜあわせ、画布に描くのは感性です。
 
 西行のみちのく行脚の五百年後、芭蕉が東北への旅を決意するのも、西行の歌に惹かれたからにちがいありません。
誰が言ったのか、美が翳ってくると知が輝いてくると。シェイクスピアでないことは確か。知が翳っても美は輝きつづける。むしろ輝きを増すでしょう。
森羅万象は知を抱合せず、美に永遠の生命を与えます。価値観とか尺度の違いなどと学者のごとき野暮は言わない。知識が人を説得するのではない、人知の及ばざる何かが心を揺さぶり説得する。
 
   「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」は細川ガラシャの辞世の歌。ガラシャはいうまでもなく明智光秀の娘(三女)、生前は「たま」、もしくは「たまこ」。ガラシャは明治時代になってからの呼び名です。この歌を詠んだ細川ガラシャを強い女性であると言う学者もいますが、強さの背後に弱さも感じてしまう。
 
 花はいっとき美しい。落花も美でしょう。が、枯れた花を美しいとは言いがたい。古人は散る桜に理想を託していました。花でありたいと思うのは美しくありたいと思うからでしょう。散るときを知るかのような桜に仮託し、30代半ばでガラシャは自死します。自ら命を絶ったか、家臣に命を奪わせたか不明。敵が進攻して逃げなかった理由も解明されていません。
 
 居宅に火を放つ直前までそばにいた侍女の文書によると、覚悟の死であると考えてよいでしょう。ガラシャの強い意思が伝わる歌ですが、和歌の美しさもあります。凜然として厳然たる歌に込められた思い。かかえきれない懊悩をへて、やっと死ねる時が来た。生き残る道を選ばなかったのは弱さであり、美しさにほかなりません。歌は、だからこそ生き残るのです。
 
 歌は人生を高め、人生は歌を高める。みちのく行脚は西行の思索の旅です。経験が感性をゆたかにすることは、旅が人生をゆたかにすることと相似るでしょう。
 
 平成天皇は即位されたときすでに象徴天皇でした。天皇史上初めてのことです。歴代の天皇でこれほど「公」を自覚され、国民を意識され、尽くされた天皇は稀有です。西行の時代もそれ以前も以降も、御幸という名の短い旅はありました。明治天皇は北陸・東北巡幸をおこなっています。
交通発展の成果という側面はあっても、平成天皇の頻度・回数は空前絶後。皇室外交とメディアが呼ぶ旅もありますが、多くは国民を励ましたり、ねぎらったりする旅であり、ときに慰霊の旅でした。
 
 国民が望むであろう象徴天皇を完遂された。歴史の教訓とか、後世の歴史家が判断するとか、きいたふうなことを言う学者、政治家には考えもおよばないことを行動で示してこられました。
自分のおこないを後世の人間の判断にゆだねるのは言い逃れのようで無責任。いわんや、天皇陛下のお姿、ご言行を見てもいない後世の歴史家に判断をゆだねるなどとたわけたことを。
 
 後世の歴史家の評価は不要。威厳を保ちつつ、皇后陛下と共に慈愛とやさしさを失うことなく、阪神大震災、東北大津波の被災者、太平洋戦争の犠牲者と遺族を見舞う旅をつづけてこられました。
メディアやジャーナリスト、学者が騒ぎたてていた「こうあるべきだ」とかの天皇論は崩れ去った。身をもって天皇が象徴と責任を顕現されたのです。天皇の行脚が天皇の存在を高め、国民を高めたといえるのかもしれません。
 
 私たちが天皇とつながっていることを思いおこさせるのは和歌です。5世紀大和時代、仁徳天皇が詠んだと伝わる有名な歌。
 
    高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはいにけり
 
 飛鳥時代の女帝・持統天皇の歌は百人一首に撰入されており、知る人は多いので省略。古来より歴代の天皇は和歌によって民とつながってきたことを忘れないでください。
 

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