2019年4月14日    西行の時代 待賢門院璋子(6)
 
 西行のみちのく旅行は本稿で述べたように1143年です。奥州の秋が深まる新暦10月半ばには白河の関を越え、晩秋〜初冬には帰途についていたかもしれません。都にいつ帰着したのか不明。帰京した時期がわからないことと、西行が詠んだ歌を根拠に、西行のみちのく行きは待賢門院璋子崩御(1145年8月)以降であるという説(窪田章一郎)があります。
 
 それによると、待賢門院が亡くなった翌年(1146)、「山寺や庵の生活に入った女院(待賢門院)の女房と西行が歌を交わしている」と述べ、その後1147年に西行は陸奥の旅に出たというのです。
女房とは西行より数歳年上の堀河であり、交わした歌は
 
    たづぬとも 風のつてにも 聞かじかし 花と散りにし 君が行方を  (西行)
 
    吹く風の 行方知らする ものならば 花と散るにも 後れざらまし  (堀河の返歌)
「西行の心月輪」(高橋床次)に「女院が桜の花のように散って逝った行方を、西行の心がむなしく追って行く。(中略)西行はその飛花の行方を追って陸奥への長途の旅に出たのかもしれない」と記されています。窪田章一郎説支持の立場。
 
 しかしこの説はできすぎの感をぬぐえません。待賢門院が崩御(1145)し、一周忌を迎えて歌のやりとりがあり、それから1年経過し、そろそろ参りましょうというのでは西行らしくない。1142年旧暦2月の待賢門院出家後、電光石火のごとく行動した西行です、諸般の事情が異なるといってもあまりに悠長。
 
 ひそかに愛した女院の崩御によって西行が傷心をいやすべく奥州へ旅立つでしょうか。西行を自己憐憫のあげく旅に出るようなヤワな人間だと学者が考えるのは構わないけれど、固定観念の勝った推論にすぎず、待賢門院出家の翌年(1143)初めての長旅を決然とおこなったとみるのが妥当。
歌は歌、現実は現実。鉄道もない険しい山道を歩く。安穏として旅立てる時代ではありません。固定観念にとらわれる最大の原因は経験不足、あるいは偏狭、もしくはその両方です。経験を重ねた西行は歌に生きる。経験と歌は同化し、不即不離なのです。
 
 京都から平泉まで徒歩で旅しなければならない平安末期。17世紀、「奥の細道」の芭蕉(西行500回忌の1689年春、芭蕉は旅に出ます)でさえ覚悟が要るのに、江戸期に較べれば街道が格段に未整備の12世紀半ば、むなしいから奥州へ旅に出るなどと思う者は、長期ハイキングや徒歩旅行の経験のない学者くらいではないでしょうか。
 
 西行(佐藤義清)が家人として仕え、和歌を学んだ徳大寺家は待賢門院璋子の実家ですが、西行より17歳年長の璋子はすでに鳥羽天皇の中宮。女院との出会いは西行10代後半、北面武士として鳥羽上皇に伺候しているころです。
伝えられない胸のうちを出家前の西行は、 
 
    知らざりき 雲居のよそに 見し月の 影を袂に 宿すべしとは 
 
 と詠みますが、思春期真っ只中の西行と、出会いから十数年たった20代後半の西行とでは、女院を想う心持ちも微妙に変化しているでしょう。
そしてまた、「花と散りにし 君が行方を」を西行が詠んだのは、歌会の即興歌ではなく女院の面影をしのんで詠んだ歌です。和歌は即興で創られるより思い出して歌うほうが圧倒的に多いことは、過去の歌人の示すところ。
 
 西行が1144年春過ぎまで奥州に滞在したことは次の歌で明らかです。「陸奥の国平泉にむかひて東稲と申す山のはべるに 異木(ことき)は少なきやうに桜の限り見えて 花の咲きたりけるを見て詠める」と前置きして詠む。
 
    聞きもせず 東稲山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは   (山家集)
 
 平泉の桜は新暦4月中旬以降が見頃。吉野に勝るとも劣らない桜をみたのです。
みちのくの旅を終え、次の計画を練る日々をおくっていた西行のもとに届いたのは待賢門院崩御の知らせでした。待賢門院璋子が崩御したのは三条高倉第です。そして遺体が送葬されたのは法金剛院。法金剛院について少し述べねばなりません。
 
 1142年正月(旧暦)、待賢門院に仕える源盛行と妻が巫女・朱雀に依頼し、美福門院を呪詛させたという嫌疑をかけられ、盛行と妻は土佐国へ流罪されたことは「西行の時代 みちのく(1)」に記しました。
「事の真相はどうあろうとも、この呪詛事件が待賢門院に与えた衝撃は、痛烈であったに違いない。女院は、いずれは出家することを考えておられただろうが(中略)、出家の時期を早めたことは、疑いなかろう」(「待賢門院璋子の生涯」 角田文衞)。
 
 璋子の御願寺(ごがんじ)法金剛院は、かつて落慶法要のおこなわれた1130年、鳥羽上皇、崇徳天皇も御幸され、戒師は覚法法親王が執りおこないました。覚法法親王(1092−1153)は白河法皇の第四皇子。鳥羽上皇が東大寺戒壇院において受戒し法皇となったさいの戒師で、仁和寺第四世門跡です。
1142年2月26日(旧暦)の女院出家のおりには鳥羽法皇、崇徳上皇も臨席。そして「1142年2月26日(旧暦)、女院に真如法という法名が授けられた。女院出家の報せをきいた忠通は、夜陰ひそかにほくそ笑みをうかべていたことであろう」(角田文衞前掲書)。
 
 角田文衞の卓越した点は、文章が巧みなことのほかに次のような文言を書き加えていることです。「同じ26日、女院の側近に仕えていた堀河と中納言も、女院の後を追って出家した。堀河は、当日の心境を歌に托してこう述べている」。
「さまかへさせおはしましゝ日、やがて御供になりてさぶらふに、おくれまゐらせぬることを思ひて」
 
      諸共に 家を出でにし かひもなく まことのみちに たちおくれぬる 
 
 法金剛院について美川圭著「院政」に、「当初はほぼ一町(注:1200メートル)四方の敷地をもち、中央に大きな池、池の西には阿弥陀堂、東には御所が建てられた。また出入りのために西の築垣(ついがき)に大門がもうけられ、東の御所に通じる門があった。現在の法金剛院の池は、当時の池のほんの一部であって、当時は御所から阿弥陀堂へ向かうのに船を用いたらしい」。
 
さらに、「最初は阿弥陀堂と御所だけだったようだが、その後1135年に北斗堂、1136年に三重塔と経蔵、1139年に九体阿弥陀堂(南御堂)、法華三昧堂と、待賢門院存命中に続々と堂舎の造営がなされた。これらの造営には、当初の一町四方の寺域では不足していたので、南築垣が取り壊されて、南へ寺域が拡張された。」と書かれています。
        
 死期の近いことを悟った女院は、法金剛院を仁和寺の覚性(かくしょう)法親王(1129−1169 鳥羽院と待賢門院の子 第五世仁和寺門跡)に譲渡しました。
1145年8月22日(旧暦)、44年の人生に別れを告げた女院の遺骸は翌23日、三条高倉弟から法金剛院の三昧堂に移され、崩後は火葬せず法金剛院の裏手に土葬せよとの遺言どおり裏の五位山御陵の石穴に納められました。
 
 権勢並ぶことなき栄華を誇った白河法皇(1153−1129)の寵愛が終焉して16年、どの和歌集にも璋子の歌は撰入されていないことを思えば、歌は不得意だったのかもしれません。璋子が秀でていたのは箏(しょう)であったといいます。
また、石名取(いしなとり)と呼ばれる遊びが好きであったらしく、角田文衞の前掲書によれば、「二、三十個の石を撒いて置き、そのうちの一個を空中に投げ飛ばし、落ちてくる間にできるだけ多くの石を拾い、かつ落ちてくる石を受ける。これを順々に試み、席上の石がなくなるまで続ける」遊びだそうです。
 
 女院の石名取は、殿上人から献上されたという「美しい絵を描いた石」を用い、石の数は31個のことが多かったと伝わっています。東京博物館所蔵の石名取玉(重文)は水晶。石名取は幼少の聖徳太子も好んだようで、お手玉(江戸期発祥)の元祖です。
身体を動かすことが好きで、躍動感と気品にあふれ、実年齢より若くみえる魅力的な美女。それが璋子でした。
 
 
        
           待賢門院 御陵 京都市右京区花園 「法金剛院」の裏手 2019年4月4日午後


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