2019年4月18日    西行の時代 高野山

                大阪府箕面市今宮 2019.4.16
 
 
  西行が高野山へ入ったのは正確な年代は不明として1149年ごろとされています。周知のごとく真言宗の総本山として平安初期から21世紀のこんにちまで信仰の拠点として1200年の時をつないできた聖地。
1950年代、京阪神地方で小学校に通う人たちが夏の林間学校を宿坊で過ごした思い出の地です。信仰の山は比叡山もありますが、兵庫県、大阪府、奈良県、和歌山県で信仰の山といえば高野山。各家庭の信心する宗派は別々でも、弘法大師信仰は府県の別なく敷衍していました。小さな子どもでさえ弘法大師の名を知っていた。伝教(でんぎょう)大師って誰?
 
 出家後、西行は東山の庵に住み、長楽寺(東山区円山町)、雙林寺(東山区下河原鷲尾町)といった延暦寺系の寺に出入りしていますが、嵯峨野に草庵をかまえてから出向いた寺は嵐山の真言宗「法輪寺」。
真言宗が都の皇族貴族に及ぼした影響は平安初期と末期では異なるでしょう。平安初期は南都六宗が既存し、特に東大寺第14世別当は空海(774−835)であったことから、真言宗が宗教として都の趨勢を占めていたとは思えません。
 
 嵯峨天皇(786−842 大覚寺開基)、宇多天皇(867−931 仁和寺開基)、醍醐天皇(885−930 醍醐寺を御願寺とした)の出現は、9世紀以降の都における真言宗の敷衍を進めていったでしょう。三寺はいずれも真言宗です。南都奈良でいまだに東大寺・興福寺がふんぞりかえっているのと同様、京都でも大覚寺、仁和寺、醍醐寺の尊大驕慢は、くちびる寒し状態。
 
 西行と同時代に生きた重源(112−1206)は平重衡の南都焼討後の東大寺再建にあたって勧進職に就き、さまざまな人々に寄進を要請しています。時に強引な手法を講じたといわれる重源ですが、西行に奥州藤原氏の砂金勧進を依頼する。西行二度目のみちのく旅でした。
 
 それはさておき、真言宗が受けいれられるのは、根本経典が高邁な「大日経」、「金剛頂経」によるからではなく、というのも、庶民にとって根本経典の解釈はどうでもよく、南無大師遍昭金剛と唱えることで心の平安を願うからです。
 
 私の祖母、母は信仰の道を歩いていました。昭和初期、祖母は母を連れ郷里に近い大山寺、大神山神社、出雲大社、四国八十八ヶ所、高野山、熊野神社、金峯山寺、伊勢神宮・内外宮など全国を行脚し、私も幼いころ(昭和30年代初め)母に連れられ、お詣りしました。
祖母の夫は北海道で手広く漁業(網元)を営み、財をなした人でした。神社仏閣は昔から大きな寄進に柔軟な対応をします。各社各寺の高僧が祖母と母に会い、公開されていない秘仏拝観を許可し、秘伝の一部(真言密教の真髄)を明かしたそうです。
 
 私たちにとって神社仏閣は信仰の対象であり、神前や仏前で手を合わせることは日常行為でした。幼いころの体験が旅へ導いた。宿坊、民家に泊まることに違和感はなく、日帰り遠足より長旅をめざしたのは幼少の経験に根ざしています。大寺院に稀少と思える人徳、柔和を感得したのは主に地方寺社の住職、宮司に対してでした。
神仏に感謝し、世話になった人間に感謝する心は祈りと行脚により育まれたといえるでしょう。そういう親子三代が歌舞伎を愛好したのは、修行とは別の華やぐものへの憧憬があったのかもしれません。
 
 観音経(真言宗)、あるいは般若心経の「色即是空」の空は、森羅万象が、人間の営みも、すべて万物普遍の法則によって回帰します。が、もとは一つであると解せられます。
そういうことはさておき、「苦集滅道」、「遠離一切顛倒無想究竟涅槃」などの経文の意を知ることよりむしろ、声をあげて唱えることのほうが重要。唱えていれば字面は忘れます。意味を忘れるからありがたいのです。
 
 森に入るといいようのない充足感に満たされます。平地では望めないような空気のおいしさ。木々から洩れる光。鳥のさえずり。雨上がりの朝、広葉樹林の葉に水晶のような水玉があり、唇で吹くとコロコロ転がる。そこに日がさすと七色にかがやき、一つ一つの水玉に森の妖精が宿っているかのごとくです。
 
 妖精は夜中に活動し、日中は出てこない。隠れている。真夜中の京都御苑に、特に雨上がりの深夜、すがたは見えないけれど御所周辺に何かを感じることがあります。2013〜17年の春から初夏、夜の御所を見て何度かそういう兆しを感じ、2018年5月中旬の大雨のあとも同質のものを感じました。
 
 森の奥深く入ってゆくと倒木があり、ほかの木は助けるすべもなく、倒木もどうしようもないという感じで横たわっている。しかし老醜をみせるふうでもなく、ただ時を待っている。子どものころそんなことを感じさせてくれたのも森です。確かなものを求めて得られない空蝉の世。人の心は空蝉に似て、殻を抜ければ空洞。確かなのは森であり、大自然の摂理かもしれない。
 
 西行は高野山に滞在します。しかし長期間一ヶ所にいたのではありません。度々高野山を下山して行脚の日々を送ります。ひとり西国を旅したり、友・西住と待ち合わせて行動を共にしたり、僧坊生活を離れて自由にふるまっていたのです。
西住と西行は共に北面武士であったころの朋友といわれ、出家前の西住は源季正(すえまさ)と名乗っていました。西行は西住を「同行に侍りける上人」(高橋英夫「西行」)と呼んでいたといいます。
 
 西行が西国(中国四国)へ旅立つおり、摂津国山本で西住と待ちあわせた(高橋床次「西行の心月輪」)との記述もあり、二人の親密さを伺い知ることができるでしょう。山本は現在の阪急電車宝恊山本駅付近。宝塚市平井山荘21〜22の背後(北)の高台に古墳跡(飛鳥期)が存在し、古墳郡は山本の西部・長尾山から東へ続いています。
 
 西行待ちあわせの場所近くには聖徳太子創建の観音霊場とされる中山寺(真言宗)もあり、山本周辺は江戸期以降、植木と園芸で栄えています。
西住の歌は「千載和歌集」に四首撰入されており、説話集「撰集抄」にもふたりの交流についての記述はありますが、撰集抄の成立年が諸説入り乱れ、記述の信憑性もあいまい、西住の生没年も不明とあっては、詳細の言及を避けたほうがよさそうです。
 

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