2019年4月28日    西行の時代 荘園整理
 
 平安末期の荘園整理は白河法皇の父・後三条天皇(1034−1073)の「延久の荘園整理令」にはじまります。後三条天皇の母は皇女禎子(三条天皇の娘)で、藤原氏出身ではなく、それは宮廷内での不利な立場を意味しています。
しかし後三条の父・後朱雀天皇の遺命により皇位継承がなされ、宇多天皇以来、170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない、つまりは束縛のない天皇が即位したのです。時に1068年、満34歳の即位は遅咲きであるがゆえに、周囲の干渉を払いのけ、果敢な親政をおこなえる年齢でもあります。
 
 余談にすぎませんが記します。明治天皇の皇后(美子=はるこ)は一条家出身、大正天皇の皇后(節子=さだこ)は九条家出身。一条、九条は五摂家(藤原氏)です。明治大正期にいたるまで藤原一族の多くが皇后となり、昭和になって初めて貴族ではない美智子さまが皇太子妃となられました。皇室の侍女女官、五摂家、下級貴族こぞって驚愕したでしょう。
 
 美智子妃が女官などの虐待をうけたことはいうまでもないこと。東宮へ入る前にお后教育を伝授されても、それで間に合うものでもなく、そしてまた、王朝の歴史初の民間出身の皇太子妃ゆえ意地悪女官らの格好の餌食となったと思われます。皇太子(昭和天皇)の認識は変っても、女官の意識は平安時代のままということです。
     
 注:荘園整理令は延喜2年(902)から保元元年(1156)まで11回発布され、後三条天皇の荘園整理令(1069)が最も徹底したとされています。
 
 
 荘園制度は8世紀に始まり16世紀までつづいた土地制度。貴族や社寺の私有地である荘園を経済基盤として地方・国家運営、人民支配をはかる仕組みです。荘園領主(本家・領家)が荘官に管理させ、年貢徴収を任せていました。
荘園には税を納めなくてもいい「不輸の権」、国家の役人を入らせない「不入の権」とがあり、不輸の権を容認すると国家収入が減り、財政基盤を揺るがします。税を納付しない荘園が増えれば、大宝律令(701)で定められた公地が有名無実となる。
 
 藤原氏一族には不輸の権を与えられた者が多く、鎌倉期は地頭の荘園侵略、室町期以降は戦国大名の領国支配で荘園制度が崩れはじめ、太閤検地(1582−1598)による一地一作人(一耕作地に対して一耕作人)の権利のみ認可ということになり、荘園制度は解消されてゆくのです。
 
 藤原氏の絶大な影響力をそぐという試みをおこなった歴代の天皇はいたけれど、藤原氏の荘園に関する藤原氏の特権と専横をそぎ、是正する作業を真摯に、徹底して取り組んだ天皇は後三条帝が初めてと思われます。摂関家藤原一族による収奪の何%かを朝廷にもどさせようとしたのです。
 
 「後三条天皇が荘園整理を断行した目的が、基本的には国家財政の確立にあったことはいうまでもない。(中略) 延喜二年以来の荘園整理は、律令体制の基礎をくずす荘園の増加を放任しえないという必要からでたもの(中略) 政治責任者たる藤原氏が、つねにみずからの荘園に対する除外例をみとめさせていたので、整理の実はあがらなかった」(「日本の歴史7 院政と平氏」)。
 
 荘園整理令に反対、もしくは抵抗したのは膨大な荘園を所有する藤原氏のみにあらず、前掲書には、「東大寺が、半年間も文書提出を怠って催促された事実もあり、荘園領主(東大寺ほかの寺社)が協力的でなかったばかりか、阻害するうごきがあったことも確かである」と記されています。「諸国の国司も、中央政府の断固たる決意に支援され、現地における事務を強く遂行しえたのであった」と。
 
 「治天の君」といわれた白河法皇(1053−1129)の権勢と栄華は藤原道長・頼通に匹敵するどころかそれ以上ですが、白河院政の礎をきずいたのは治世6年に満たない後三条天皇なのです。白河院治世時、氏長者(うじのちょうじゃ)である関白・藤原師通(1062−1099)との対立要因のひとつは荘園。
「中右記」(藤原宗忠の日記)に「法皇の威は四海に満ち、天下帰服し、幼主三代の政をとる」と記された白河院は、「従来の慣例を無視し、摂関や大臣の意見も聞かず、自分の意のままにとりおこなった」というのです。
 
 道長・頼通の時代に較べると摂関家の威信が弱まったとはいえ、朝廷への影響力を失ったわけのものではなく、南都や北嶺の僧徒による強訴に対応に追われる白河院側の事情を鑑みれば、摂関家との対立は避けるほうがよろしい。
 
 乱雑簡単な言いかたですが院政とは、荘園からあがる税を免れようと計る摂関家より、新しい荘園を開発して収穫に応じた税を納める国司(受領層)を引き立て、そういう「国司からの新荘園寄進と引き換えに官位を与える」(成功=じょうごう)ことにより財源を確保する政治形態です。師通が白河法皇を快く思わなかったのは当然のことでしょう。
 
 本来、政策審議は天皇を主体とする朝廷の貴族会議にゆだねられているけれど、白河院は天皇をさしおいて院庁(いんのちょう=院政を司るところ)に一任せよと指図し、実行しているのだから。
白河院と師通のせめぎあいはしかし1099年、師通の薨去とともに終止符が打たれ、白河院政はその後30年間、藤原摂関家からこれといった干渉もなくつづき、財政基盤を保ちながらも浪費を重ね、鳥羽院政へと継承されてゆきます。
 
 六勝寺と呼ばれる天皇御願など六つの寺院は、白河、堀河、鳥羽、待賢門院、崇徳、近衛の五代天皇と女院の御願によってて建てられ、残念ながら現存しない。
寺院と境内の建造物の規模が巨大かつ多すぎて、鎌倉期以降、院政の衰退、財源不足のため維持管理不能となり、応仁の乱時ほかの火災に見舞われ、再建されていません。潤沢な資金、そしてまた浪費を重ねても、遺構が残っていればさぞやと思われます。特に白河天皇御願の法勝寺にあった八角九重塔(高さ約80メートル)の消失は惜しい。
 
 摂関政治の衰退は武士の台頭を助長します。荘園の受領層(国司)には貴族層もいるし武士もいて、平氏では清盛の祖父・正盛が白河院への荘園寄進によって巧妙に取り入り、正盛の子・忠盛は白河院および鳥羽院に取り入る。むろん両院はその手の策略を承知しており、彼らを警戒しつつ、平氏など武士団が分不相応の頭角をあらわさぬようコントロールしています。
 
 院政優越体制は鳥羽法皇崩御までつづく。師通の子・忠実をまじえ、孫・忠通と頼長の対立が激化し、崇徳上皇と弟・後白河天皇が敵味方に分かれた保元の乱の勃発によって武力が世を席捲し、360年の平安の春は終焉を迎えるのです。
 

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