2019年5月6日    西行の時代 鳥羽院政(1)
 
 鳥羽天皇(1103−1156)は堀河天皇(1079−1107)の子で白河法皇(1053−1129)の孫。堀河天皇は若くして崩御しましたが、説話集「続古事談」(鎌倉初期)は「末代の賢王」と記しており、賢王の意は、性格がおだやかで雅やか、摂関家藤原氏(当時は藤原師通)などとの人間関係をうまく保つことに傾注したからと思われます。
 
 師通が1099年急逝し、師通の子・忠実が氏長者(関白就任)となり、当初は忠実との調和を保っていた白河法皇(1096年出家後法皇)でしたが、忠実の才知と能力を信頼に値せずと判断した法皇が堀河天皇をさしおいて院政を強化すると、堀河天皇は政(まつりごと)をはなれ和歌管弦の世界に没入しました。
 
 鳥羽天皇についてはすでに述べてきましたが、その中宮は藤原璋子、後の待賢門院です。白河法皇は璋子を寵愛したあげく1117年、孫の鳥羽天皇の女御となし、翌1118年中宮に立てました。孫にとって祖父(白河法皇)は偉大な存在、祖父の勧めとあっては躊躇もおよばず、むしろ光栄と感じたかもしれません。
ところが1123年、白河法皇は鳥羽天皇に譲位させ、璋子と鳥羽天皇の子(崇徳天皇=白河法皇と璋子の子の可能性大)を即位させた。それにより天皇は上皇に、璋子は鳥羽上皇の后・女院(にょいん)となり、待賢門院の院号を賜った。その後については「待賢門院璋子(5)(6)」に記しました。
 
 白河法皇崩御の翌1130年、忠実の息子・忠通の娘聖子(きよこ)が崇徳天皇の中宮となり、その1年後に「忠実の公的復権に向けて鳥羽上皇は動き始めた」(元木泰雄「藤原忠実」)のです。
1120年、白河法皇の不興を買い、入内を禁じられ、さらに関白職を失職せざるをえなかった忠実でしたが、11年ものあいだ途絶えていた摂関家の賀茂詣が催行され、鳥羽法皇も一緒に関白・忠通率いる賀茂祭の行列を見学しました。賀茂祭はいうまでもなく現在の葵祭(5月15日)のこと。
 
 忠実の復活は待賢門院璋子と崇徳天皇の凋落を招く。忠実は自らの日記「殿暦」に記しているとおり、異常なほど璋子を忌み嫌っていました。皇族貴族の感覚からすれば、璋子が特別というわけのものではないのに、淫らな女性と決めつけています。
一定の年齢(14〜15歳くらい)をすぎれば同衾への願望が強まるのは自然の性というもので、白河院の璋子に対する偏愛や、院の姿勢を苦々しく感じる忠実が過剰反応したというべきでしょう。
 
 政界に返り咲いた忠実は娘の勲子(いさこ 後の高陽院=かやのいん 1095−1055)を鳥羽上皇の後宮に入れるべくはたらきかけ、上皇も受け容れます。1134年、鳥羽上皇の皇后となった勲子は満39歳(鳥羽上皇より8歳年長)で初婚。名も泰子と改名します。
この出来事についてさまざまな憶測が乱れ飛んだことは想像に難くないとして、鳥羽上皇が彼女を閨に呼んだでしょうか。角田文衞は「皇后は無表情かつ男嫌いである上に、年も四十に達しており、上皇の愛寵を得ることはできなかった」(「待賢門院璋子の生涯」)と述べています。
 
 元木泰雄は前述著「藤原忠実」に「立后自体は忠実の強い希望に院が従ったものであるが(中略)、忠実に多大な苦難をなめさせたことに対する鳥羽院の負い目、償いの意識があったと考えられる」と記しています。
いつの世も人間関係の綾はあって、平安期の摂関家と天皇家は綾の連続であったかもしれません。しかし綾で鳥羽上皇が償いの意識を持ったでしょうか、きわめて疑わしい。関白・忠通が専横に走ることを牽制するため忠実を返り咲かせる、その代償が姥桜の植樹ということなのか。
 
 ともかく璋子の心はざわついたでしょう。魅力のない大年増(璋子より6歳年長)が後宮入りし、璋子を毛嫌いしていた忠実の影響力が復活するからです。わが子・崇徳天皇と自分が占めていた勢力図も塗りかえられるだろう。それが鳥羽上皇の狙いなのか。
璋子の不安は的中します。上皇は高陽院に目もくれず、1133〜1134年ごろから寵愛していた藤原得子(後の美福門院 1117ー1160)が1119年に産んだ男子(後の近衛天皇)を満2歳で天皇に即位させ、崇徳帝を上皇に、自らは法皇となります。
 
 鳥羽院と忠実は、利害をともにする場合には協調関係にあったようですが、徐々に祖父・白河法皇的傾向が顕著になった鳥羽院について息子・藤原頼長(1120−1156)に、「法皇の朝廷に臨み給ふこと十七年、その政、多く道ならず、上は天心に違い、下は人望に背く」(頼長の日記「台記」)と洩らす。忠実という人物、人並み外れて愚痴っぽい。
 
 鳥羽院御陵は当時広大な領域であった安楽寿院にあり、安楽寿院の規模が小さくなった現在、御陵は分かれて存在しています。1145年、「完成した安楽寿院を自らの終焉の地とすることを宣言し、東にある三重塔に自分を葬るよう遺言した。実際に保元元年(1156)、この安楽寿院で亡くなり、遺言どおり三重塔に遺骨が納められることになる」(美川圭「院政」)。
同著に、「鳥羽院の菩提を弔うための安楽寿院領は、のち王家領荘園の一大中心となっていく」と記されています。
 
 
 先日、天皇が譲位され上皇となられ、皇太子殿下が新天皇に即位された。立太子すれば即位が可能であった時代に側妾の否定は論外です。天皇の存続継承は絶対。終戦直後、宮家が廃止され、皇位継承の幅が極端に狭くなりました。
お仕着せ憲法であっても、憲法は憲法という立場に立ち「天皇は国民の象徴」という文言を堅持するなら、象徴である天皇の存続のために女帝も認めるべきでしょう。
 
 有識者会議を開き意見を参考にするのは可としても、有識者はとかく危機感を表面に出さず澄ましています。互いに牽制しあっているのでしょうか。彼らの多くはあたりさわりのないことしか言いません。歯切れがわるく、煮え切らない。官邸も自分たちに都合のよくない意見は採り上げない。
政治家やメディアがわけ知り顔で口出しするのはどうか。皇室典範は政府のために存在するのではなく、皇室のためにも国民のためにも存在し、国民の過半数が反対しなければ、そして皇室が諒解するなら、女帝も可能とすべきなのでは。
 
 小泉政権の時代、愛子内親王が誕生されたころ、女帝論に花が咲きましたが、秋篠宮殿下の男子誕生以来、いつのまにかしぼみました。男子の即位者がいなくなって急場しのぎに皇室典範を改正するのは滑稽ですが、過去に女帝が存在したように未来に女帝即位があってもかまわないのではないでしょうか。
 
          
         安楽寿院  京都市伏見区竹田


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