2019年5月11日    西行の時代 鳥羽院政(2)
 
 鳥羽上皇は白河天皇が始めた鳥羽離宮の拡張に着手します。現在の名神高速道京都南インターチェンジの南部に位置する鳥羽離宮跡の敷地面積は、東西1500メートル、南北1000メートルに及んでいました。その地は平安京の朱雀大路(幅82メートル 鳥羽街道は朱雀大路〜淀を結ぶ街道)を南に進んだところ。鳥羽という地名の呼称は平安京遷都前からあったようです。
 
 高橋昌明著「京都〈千年の都〉の歴史」に「朱雀大路・京極大路以外の街路に大路・小路の名がつきはじめるのは、だいたい10世紀ごろからだった。街路名はいくたびか変化したが、こんにちの平安京図に見える街路名に定着するのは院政期である。
12世紀前期の『掌中歴』(事典)という書物には、京の左京の縦横の街路の名が、[姉、三條、角、坊、錦……]のように列記されている。これは現在でも街路名を覚えるために使われている[アネ、サン、ロッカク、タコ、ニシキ……]のような口ずさみの、はしりといえよう」と記されています。
 
 当時、鴨川は東から南に流れ、西に桂川が流れ、水路を引くにも離宮を造営(1086年開始)するにも格好のロケーションでした。二つの川にはさまれた場所に相次いで殿舎、御堂が建てられ、殿舎の多くは広大な池に接し、舟で往き来したといいます。
 
 殿舎のうち安楽寿院を含む東殿には、三重塔3基、多宝塔1基が築かれ、各々の塔には白河院、鳥羽院、近衛天皇の遺骨が納められ、御堂も建てられました。白河法皇の陵墓となった三重塔の近くには「九体阿弥陀堂が造営される。同時代の実例は京都府木津川市の浄瑠璃寺に現存する」(括弧内は高橋昌明前掲書)。
 
 いまの京都御所は京都御苑のなかにあり、京都御苑の規模は東西約700メートル、南北約1300メートルなので、鳥羽離宮の大きさは京都御苑を凌ぐということがわかります。
 
 
 鳥羽院政を支えた経済基盤。昭和20年代〜30年代生まれの人たちが学校で教わる日本史は、摂関期(平安中期)に荘園制度が発達したということでしたが、いつのころか否定され、平安末・院政期に荘園が激増したとされるようになった。
そのほとんどが寄進によるもので、特に天皇・上皇・女院に対する寄進が多かったのは、天皇家が膨大な数の御願寺建立に着手し、荘園領主である国司や下級貴族が寄進で造営資金および経営資金を調達したからです。
 
 そのように天皇家の荘園は増加し、前掲書によると、「鳥羽離宮の安楽寿院に集められた31ヶ所などはその代表的なものである。(中略)六勝寺は全体で107ヶ所に達する。院政期以降、皇女の女院王家領が伝領される例も急増した。」とあります。
 
 院政期におきる変化は、従来の町の敷地割りは東西いずれかにしか開いていなかったのが、垣を崩して南北にも開かれるようになったことです。街路の役割が見直され、四方に拡充されはじめました。地点表示が正確となり、土地売買がやりやすくなる。現在に至る表示の始まりです。
 
 そして鳥羽院政を支えた軍事基盤。
鳥羽院は平忠盛を贔屓としており、理由は忠盛の寄進と軍事力。「院政と平氏」(安田元久)にそのあたりの状況が述べられています。「1147年6月(旧暦)祇園会のときのことである。祇園社の所司と忠盛が闘争をおこし、忠盛の嫡子清盛も六波羅から駆けつけ、所司に負傷させたうえ、神輿(しんよ=みこし)に矢を射立てた。
 
 祇園社と関係の深い延暦寺の衆徒が蜂起、朝廷に強訴し、忠盛父子の流罪を要求。鳥羽法皇は三日以内に決定すると約束して衆徒を帰山させ、朝廷で評議することとした。評議の席で内大臣・頼長(忠実の子・忠通の弟)は忠盛父子を処罰すべしと正論を吐き、法皇の意志決定をせまった。侃々諤々たる評議のすえ日は流れ、法皇は忠通とはかって発表したのは軽い罰金刑」。
 
 頼長・忠実は忠通と敵対し、鳥羽法皇崩御直後の1156年、保元の乱へとつながっていく。逆説的ないいかたをすれば、法皇存命中に動けなかった人々を抑えていた法皇の権威の大きさ、コントロール力を示したのが保元の乱なのかもしれません。
 
 「院政と平氏」には、「忠盛はもはや院の北面の一員ではなく、一つの独立した武力集団の棟梁であった」、「忠盛が鳥羽院政の内部に密着し、院政勢力を支える有力者の一人となっていたのである。忠盛の武力がそのまま院政の重要な軍事力としての機能をもつにいたっていた」とも記されています。
 
       
       鳥羽離宮跡の図  現在の安楽寿院前に掲示されています 図の上(北)の桑茶色の道路は名神高速道と京都南インターチェンジ


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