2019年6月15日    西行の時代 対立(1)
 
 成り上がった者の欲求が強まると厄介。権力の中枢に座す者の寵愛を得ている女性は特に厄介です。鳥羽法皇の皇后となった藤原得子は藤原一族のなかでも身分が低く、成り上がらなければ持たなかったであろう欲望を発揮し、崇徳上皇と対立します。
 
 平安末期、得子(なりこ)=美福門院と崇徳上皇だけではなく、関白藤原忠通と左大臣藤原頼長兄弟、源為義と源義朝父子もはげしい対立の渦中にありました。それぞれの詳細を述べると長くなりますが、順を追って記しましょう。
美福門院=藤原得子(なりこ)は鳥羽院の男子(近衛天皇)を産んだことによって権勢を強め、近衛天皇が16歳で崩御したのちも関白藤原忠通と組み、京を混乱と戦乱の渦に巻き込んだ愚女、悪女。
 
 「玉藻前(たまものまえ)」のモデルは諸説ありますが、最も近いのは美福門院とされています。悪女、妖女のたぐいはいつの世にもあらわれ、そういう崩れた女に惹かれる男もありましょうが、法皇が寵愛するとなると話は別。
 
 得子は待賢門院璋子と較べて決して美貌といえない容姿であっても、鳥羽院より14歳年下で肌合い抜群、しかも情欲盛んとなれば耽溺するのも必定。
得子の性感は発達しており、性反応がきわめてよく、鳥羽院は夢中になった。得子は意識せずとも媚態を見せられる女で、性的興奮を一気に高める痴態を見たことがない鳥羽院はたちまち得子のとりこになります。
 
 しかし摂関家や院近臣から一目置かれていたであろう鳥羽院が愚かであったとは思われず、歴代の帝同様色好みにすぎず、鳥羽院自身、得子や忠通のいいなりになるとか、先んじられることはないと思っていたはずです。
 
 女性の地位や実像についての史料が少なすぎるため、学者専門家の多くは女性を語るのが得意ではなく、おおよそ想像にたよっており、結局そうするほかないのですが、皇后・得子は周囲から問題視されながらも重視されていた。
男尊女卑という考え方はなく、さまざまな場面で自己主張したでしょう。鳥羽院が油断しているすきに忠通などと共謀して得子が競争相手を陥れたことは、待賢門院璋子の例を鑑みても間違いないでしょう。
 
 崇徳上皇や忠実・頼長父子が得子の存在をどのようにみていたか確かな物証や史料はありません。得子に対する警戒心を怠たらず、打つべき手を打っていれば、その後の展開は真逆の方向に向かっていたかもしれません。成り上がりで現実に固執し、未来への配慮を欠く得子のような女性が歴史を変える力を持つこともあるのです。
 
 得子が卓越していたのは信仰心や文化素養のなさ、利をみるに敏感な眼、力を持つ男にすり寄る早さ。悪女たる者はかくありなん。
悪しきことは21世紀のこんにちも変わりなくおこなわれ、物言えば唇寒し。得子は歴代の皇后と違って寺院の建立はおこなわず、自らの御願寺さえありません。鳥羽院が崩御(1156年7月)し、院の所領ほとんどを得子が相続、得子の死(1160年12月 43歳)後、所領は娘の八条院が相続しました。
 
 崇徳天皇は鳥羽上皇の命によって譲位させられ、得子と鳥羽院との子=近衛天皇が天皇に即位しますが、これは鳥羽天皇が祖父白河上皇の命によって譲位させられ、崇徳天皇が即位したことの蒸し返し。
「譲位に際して公表された宣命(せんみょう=天皇が宜(の)りたまう命令)に近衛が皇太弟とあり、崇徳の院政は不可能となった。当時の原則では天皇の直系尊属のみが院政を可能としていた」(元木泰雄「藤原忠実」)。崇徳上皇院政の道は閉ざされ、崇徳帝の皇子重仁親王の天皇即位の道も危うくなりました。
 
 1155年8月の近衛天皇崩御後、それまで即位の可能性すらないとみなされていた後白河天皇が即位します。崇徳側の将来を閉ざそうとする得子、忠通の意思がはたらいたのは明らかで、最初は後白河の子を即位させようと図ったのですが、鳥羽院の反対、先例がないということで断念したといいます。
 
 忠通の台頭は彼と対立していた父・忠実、弟・頼長の凋落を助長し、もともと仲のわるかった為義・義朝父子ですが、為義は忠実・頼長側につき、義朝は得子・忠通側についたことで武力闘争の兆しがみえはじめる。
鳥羽院存命中は表だった動きをみせなかった人々も、1156年7月、鳥羽院崩御を待ちかねたかのごとく風雲急を告げる事態となります。崩御の9日後に勃発した保元の乱によって都の一部は戦火に見舞われるのです。
 

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