2019年7月4日    西行の時代 対立(2)
 
 兄弟、親子が対立のすえ争乱が勃発し、都に戦火がおよぶという前代未聞の出来事に貴族や庶民はどのように感じたでしょう。険悪な状況も仲違いも平安末期にかぎらずおこるけれど、それぞれに与する者たちを巻き込み、落命したり処刑されたりが都でおきるとは、慮外というほかありません。
 
 誰が対立を望んだのか。誰が戦争を望んだのか。藤原忠通か得子(なりこ)か。忠実か頼長か。義朝か為義か。清盛か忠正か。敵対関係は望まなくても生じ、自他を守ろうとする決意は野望に変わり、利害は衝突する。そんなことは誰もが知っています。しかし対立や衝突を避けるのは難しい。貴族にも武士にも勝算はある。悪女得子に勝算があったように。
負けるとわかっている戦を仕掛ける者は稀有。平凡非凡の別なく「われに勝算あり」と自負する。しかし企業間の競争ならともかく、勝算ほど厄介なものはない。交戦は両者ともに犠牲を支払い、両者同時に勝利せず、敗者は崖から真っ逆さま。勝算は時に大愚です。
 
 源義朝と父為義の不仲は「愚管抄」(慈円=藤原忠通の子)に記されているように、「年ごろ この父子のなかよからず 子細ども事長し」でした。しかし不仲の確かな原因は不明です。確かなことは、義朝の勢いが父を凌いでいたこと。義朝は南関東一円を勢力圏とし、多くの在地武士が義朝の家人となっていました。
おりしも弟義賢が武蔵国に進出したことにより対立、義朝は義賢を滅ぼしてしまいます。歌舞伎「義賢最期」はそのときの模様をヒントにして創作された。当代片岡仁左衛門は演出に工夫をこらし当たり役とします。侍女が義賢の赤子を連れて逃げ去る場面もあり、それが後の木曽義仲。
 
 為義は忠実と頼長に仕え、義朝は鳥羽院や忠通との関係を強固にし、官位は為義より上(従五位下)となったことも不仲を激化する一因となったでしょう。
「院政と平氏」(安田元久著)によると、「愚管抄」に「鳥羽院は頼長らの叛乱を予想し、清盛や義朝など10名の武士に誓紙をいれさせ、後白河天皇を守るよう約束させた」ということが述べられているそうです。ほんとうでしょうか。保元の乱勃発時、慈円は1歳、愚管抄には伝聞、憶測も記されている。伝聞必ずしも正しいとはいえず、忠通の子・慈円が事実を書いたかどうか。
 
 崇徳上皇をかつぎだす恰好となる頼長と上皇は、鳥羽院に対する不満という共通点があります。現在の不遇をかこつ両者が結束する。崇徳上皇の場合、白河院崩御以来うしろ盾となっていた生母・待賢門院璋子が得子と忠通の策略によって隠遁を余儀なくさせられ、さらに皇子の天皇即位の道も閉ざされてしまった。
 
 頼長の父忠実と兄忠通の対立はさまざまあるのですが、「藤原忠実」(元木泰雄著)には、「興福寺の強訴に端を発した混乱を抑えようとした鳥羽院が仏師長円を強引に清水寺(興福寺の末寺)別当に就任させ、これに激怒した興福寺の悪僧が長円一行を襲撃し、鳥羽院は怒って悪僧の追補を強行」。
しかし興福寺の強訴は収まらず、「摂関家の立場を著しく悪化させる恐れがあった。忠実は忠通(関白)の無策が混乱と衝突を招いたと憤慨し、自ら統制に乗り出すことになり、この介入が結果的に忠実と忠通の深刻な対立の一因ともなった」と記されています。その後も「興福寺問題」が父子の対立を激化させるのです。
 
 対立はとどまりません。頼長は兄忠通をさしおいて自分の娘の入内工作を図ります。忠通は対抗手段として得子(美福門院)の養女となっていた女(忠通正室の姪)を入内させるべく画策します。前掲書「藤原忠実」に、「この背景に頼長と美福門院との鋭い反目が伏在したことは疑いなく云々」とあります。
頼長は得子の出自が下級貴族で、成り上がったにすぎず、とかく陰謀をめぐらす悪女であると嫌悪していたようです。入内の件は結局双方ともに成就(頼長の娘が近衛天皇の皇后、得子の養女は中宮)。入内した新皇后と新中宮がライバル関係にならなくても、後見同士がにらみ合う。こういうことがあって忠実&頼長、忠通の対立は増幅し、修復不能の事態となります。 
 

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