2019年7月23日    西行の時代 保元の乱(1)
 
 「保元の乱」勃発の主な原因は、後白河天皇側が崇徳院や忠実、頼長側の不満をうまくコントロールできないので、崇徳院などを挑発し、戦闘準備をとらざるをえない状況に追い込んだという説が有力となっています。
 
 ここからいよいよ「保元物語」の登場となります。鳥羽法皇崩御の4日後(旧暦保元元年=1156年7月6日)、「是ハ、大和国住人宇野ノ七郎親治ガ、左大臣殿(頼長)ノ仰セニテ、新院(崇徳院)ノ味方ニ参ズル也」(「保元物語」 岩波書店 新日本古典文学大系)。源親治は頼長が呼びよせたことを物語っています。
 
 「保元物語」は頼長側の源親治を食い止め、捕らえた場所を「法性寺の辺」と記しています。藤原忠平が925年に建立したと伝わる、鴨川の東、九条の南にあった法性寺のことです。親治を捕縛したのは弱冠18歳の平基盛(清盛の次男)。これは(保元の乱勃発5日前の)大手柄であるというわけです。
 
 「左府(頼長のこと)、又、東三条ニ、アル僧ヲ籠テ秘法ヲ行ワセラル。内裏ヲ呪詛シ奉之由風聞アリテ」、(中略)「三井寺法師阿闍梨勝尊ト云フ僧也」、(中略)「左大臣殿ノ書状等顕然ナリケレバ」、「サテコソ謀反ノ企共次第ニアラワレニケル」。
「保元物語」にはこの少し前、「来十一日、左大臣頼長、肥前国ヘ流シタテマツルベキ由」云々の記述も。
 
 僧・勝尊から奪った書状により頼長の謀反が発覚し、頼長の肥前配流日が7月11日に決まったというのです。書状の一件が露見し、5日後に配流とはまことに手回しがよく、頼長に弁明の余地を与えず、なにがなんでも窮地に陥れる姿勢が丸みえではありませんか。
シナリオを作成したのは誰か不明として、頼長は従うか形勢逆転をはかって挙兵するかの土壇場に追い込まれました。
 
 一方、崇徳上皇は鳥羽法皇の病気見舞いに参内しても会うこと許されず、法皇臨終時も立ち会いを拒まれたといいます。後白河天皇側の崇徳上皇排除の意図確然たるというべきか。崇徳上皇と弟・後白河天皇は同母・待賢門院璋子。
鳥羽法皇と得子(なりこ 美福門院)とのあいだに生まれた子(近衛天皇)が若年で崩御し、後白河天皇を即位させたことにより皇統は後白河の皇子が継ぐこととなる。崇徳帝は院政の道を閉ざされただけでなく、わが子の天皇即位への道も断たれます。
 
 後白河天皇側は当然のごとく、崇徳上皇や上皇の近臣勢力が大きくなる前に摘みとっておかねばならないと考える。実の兄弟という血の濃さは近親憎悪を生みます。得子や鳥羽法皇の延臣、後白河天皇の随身などの思惑、崇徳上皇側の逼迫感が入り乱れて収拾不能。
 
 「保元物語」によれば源為義を呼びよせたのは崇徳上皇であるとされていますが、為義は頼長の家人なので、頼長の意向がはたらいていたことは言うまでもなく、7月9日に為義の子・為朝、頼賢や平忠正(清盛の叔父)、平家弘なども崇徳上皇が本拠と定めた白河北殿に参集する。
頼長は摂関家の館・東三条邸を没収(後白河天皇側の命により源義朝が7月8日実行)されていたので、7月10日に宇治から上洛した後、白河北殿に入っています。白河北殿は川端丸太町と東大路の間、聖護院東寺領町、東丸太町、聖護川原町をふくむ一円にありました。
 
 崇徳上皇・頼長側の軍議では為朝が夜討ちを提案します(保元物語)。これに反対したのが頼長。頼長は「為朝ガ計、荒儀也。臆知ナシ」とにべもなく拒否し、「南都ノ衆徒等モ召事アリ。明日、興福寺ノ信実ナラビニ玄実大将ニテ(中略)千余騎ノ勢ニテ参ナルガ」云々と述べています。臆知は「思慮」の意。
後白河天皇側の軍議では、夜討ちをかけるという義朝の主張が受けいれられ、清盛、義朝、源頼政、平信兼などに検非違使も加わった兵1700余騎が急襲し、白河北殿は炎につつまれる。
 
 興福寺の信実は強訴や金峯山襲撃(1145)で名をはせた悪僧。興福寺僧兵に大和源氏武士団を伴うはずだった信実の来援は10日夜に間にあわず、保元の乱敗因の一つとされています。頼長の段取りがおくれたこともあるでしょうが、信実らの遅参の理由として「藤原忠実」(元木泰雄著)に、
「悪僧は、本来自身の寺院の既得権益の擁護のためにのみ蜂起しており、氏長者の危急とはいえ、(中略)悪僧の中に世俗抗争への参戦に反発があった可能性もあり、それが来援の遅延につながったのかもしれない」と記されています。
 
 用意周到な後白河天皇側、準備不足だった崇徳上皇。勢力の違い(後白河側が優勢)。作戦の練りまちがい。勇猛果敢な為義・為朝でも次第に劣勢となり、未明にはじまった戦闘は4時間半後の7月11日朝終結し、崇徳上皇以下、各所に落ちのびていきます。


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