2019年8月9日    西行の時代 保元の乱(2)
 
 白河殿を出た崇徳上皇が落ちのびるさまを「保元物語」は次のように詳述しています。
 
 「院ノ御供ニハ、為義、家弘、武者所ノ季能(すえよし)ナンゾゾ候ケル。如意山ヘ入セ給フ。(注:如意山は東山三十六峰の一つで如意ヶ岳とも呼ばれた。北白川の南東、鹿ヶ谷の東に位置)。山中ニテ新院、俄ニ御絶入(せつじゅ=気を失う)アリケレバ、(中略)暫アリテ、人ヤ候ト召シケリ」。
 
 崇徳院に付き随(したが)い、お守りしたのは源為義、平家弘などわずか数名というありさまでした。夜ふけに山から出て、白川の東光寺の辺りで家弘の子・光弘が知人に輿を借りて崇徳院を乗せます。どこへ参りましょうと院にたずねると、院は女房阿波局のもとへと仰せになり、二条の西・大宮にある阿波局邸へ行き門を叩くのですが、門は閉ざされたまま。
 
 次に参議藤原教長(のりなが)の邸宅へ行ったのですが、教長は崇徳院側に味方し、どこかへ落ちのびたとみえ不在。最後に少輔(しょう)内侍の家へと仰せになりました。しかし門は閉ざされ人が出てくる気配はありません。
 
 ひとたび権門を去れば人は顧みることなし、です。一夜にして至福は悲惨に変わり、悲惨をいっそう酷くしたのはかつて崇徳院の恩顧をえた局、内侍などの女官。門を開ければ崇徳院を招き入れざるをえない。壁に耳あり、障子に目あり、口止めしても従者、あるいは近隣の者が得意顔してもらすでしょう。
 
 崇徳院を招き入れたからといって配流になるわけのものではないとしても、巻き添えになるのは御免と思ったに相違ありません。恩顧はどこ吹く風、現金な女はいつの世も多数存在し、阿波局も少輔内侍も後白河天皇側の処罰をおそれて閉門したのです。彼女らには崇徳院が厄災そのものと化し、腐ったきうり・へちま並みに扱われたというほかありません。
 
     内侍=天皇・上皇のそばに仕え、奏上、宣下の仲介の任にあたった内侍司の女官。
 
 物語性の観点から記述すべてが事実かどうか別として、保元物語の作者が言いたかったのは、女をあてにするなということと崇徳院の考えの甘さということでしょうが、溺れる者わらをもつかむということも伝えたかったのかもしれません。
 
 崇徳院が得子(なりこ)や後白河天皇側の悪辣な策に耐え、見すごしていれば頼長は行動をおこしたでしょうか。。常軌を逸するほど今様にふけり、遊女、雑仕女を仲間に入れて遊び興じた親王時代の後白河、そして後白河とは真逆の生き方をした崇徳院が、重仁親王の天皇即位に拘泥せず、歌という風雅の追究に的をしぼっていれば‥保元物語もなかった。
 
 崇徳院は当初「園城寺」(大津・三井寺)に落ちのびようとしたとする説もあります。
白河北殿から園城寺まで東へ進む山道は、現在の琵琶湖疏水ハイキング道とおおむね同じコースで、後白河天皇側検非違使らの検問からは逃れることはできても、院には難儀な道ですし、敵が園城寺に手を回しているかもしれないということもあって、結局北西方向への進路を選んだと思われます。
 
 崇徳院にとって最後の頼みの綱は仁和寺の覚性法親王(1129−1169)でした。仁和寺は北嵯峨に近い京都御室にあり、白河北殿から離れています。覚性法親王は崇徳院の弟(母も待賢門院璋子)。院は船岡山(紫野北船岡町)の知足院(船岡山麓にあり後に藤原忠実が住む)で出家され、仁和寺へ向かわれた。
 
 折しも都に滞在していた西行は仁和寺の院を見舞い、歌を詠んでいます(安田章生著「西行」)。時に西行、満38歳。
 
 世の中に大事いできて、新院あらぬ様にならせおわしまして、御ぐしおろして仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて云々。月明かくて詠みける。
 
          かかるよに 影も変らず すむ月を 見るわが身さえ うらめしきかな
 
 そのあと西行は、「まぼろしの 夢を現(うつつ)に 見る人は 目もあはせでや よをあかすらむ」とも詠みます。
 
 仁和寺に入った崇徳院は翌日7月13日捕らわれ、23日讃岐(香川県坂出市)に流されました。崇徳の号は、朝廷に強い怨念を持ち世を去り、その怨霊慰撫のため1177年追号されたものです。
配流後は讃岐院と呼ばれたといいますが、院としては不名誉はなはだしい呼び名であったのではないでしょうか。崇徳院は勅撰集約八十首入集の歌人であり、和歌というジャンルの文学的功労者でもありました。
 
 北面武士時代の西行が徳大寺実能を通して鳥羽院の歌会に参加したころは歌を詠むのが精一杯でした。後世に名を残す人は誰しもそういう時代があります。鳥羽院の恩寵は西行の記憶に強く残り、終生忘れなかったでしょう。
待賢門院璋子が崩御したのち崇徳院の行く末を気にかけ、鳥羽崩御の日も安楽寿院の塔の前で冥福を祈ったようです。そのときも崇徳院に会えればと足をのばしたのですが、警固の者たちに阻まれ面会できなかった。
 
 西行は崇徳院(1119−1164)が亡くなられて4年後(1168)四国へ旅立ちます。院の眠る白峰御陵(坂出市の白峰山=標高337メートル=山頂付近)にお詣りして詠んだ歌。
 
          よしや君 むかしの玉の 床とても かからむ後は 何にかはせむ
 
 坂出の白峰御陵は二度行きました。最初にお詣りしたのは1995年4月初旬。時おりしも桜が満開。頂上近くの白峯寺(四国八十八ヶ所代八十一番)の真下で乱舞する桜吹雪。
大槻能楽堂で1994年8月27日にみた復曲能「松山天狗」の前シテは老翁。後ジテは崇徳院の霊。西行はワキ、無念の最期を遂げた崇徳院を見届ける旅の僧です。前後のシテは梅若六郎(五十六世)、ワキは殿田謙吉。
 
 讃岐配流後、崇徳院と西行は和歌の送返をくりかえしたそうで、崇徳院が西行におくった歌「波の立つ 心の水を 鎮めつつ 咲かん蓮(はちす)を 今は待つかな」は報われない者の心境を歌ってあわれ。一歳年上の西行と崇徳院のあいだを行き交うのは過去でも現在でもなく、和歌という道を歩く人たちの同じ魂であったのかもしれません。
 
                
              崇徳院・白峰御陵


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