2019年9月15日    西行の時代 保元の乱(3)

2019年9月7日午後9時半ごろ自宅から撮影した月 9月6日は上弦の月でした
 
能因法師が東国へ旅立つ大江嘉言に送った歌  なが月は旅の空にて暮れぬべし いづこにしぐれあはんとすらん
 
 
 
 藤原頼長が白河北殿から逃れてのちに関して、「兵範記」(平信範の日記)に、「11日(旧暦7月11日)の合戦で重傷を負ったあと、12日に西山(京都市西京区大原野あたり)に隠れ、13日に大井川(桂川)で舟に乗り、南へ下って木津川との合流地点から奈良へ向かおうとした」と記されています。父・忠実は11日当日、頼長敗戦の報が入っており、すでに宇治から南都へ移動していました。
 
 「兵範記」は「左府(頼長=左大臣)、(中略) 十一日合戦庭被疵、十二日經廻西山邊、十三日於大井河邊乗船、同日申刻付木津邊、(後略)」(臨川書店「兵範記2・保元元年七月廿一日庚申」)となっています。
 
 「保元物語」には、「木津河ニ入リテ、柞(ははそ=木津川の西岸。京都府相楽郡精華町祝園〈ほうその〉)ノ森ノ辺ニシテ、図書允(ずしょのじょう)俊成シテ、冨家殿(ふけどの=忠実)ニ、今一度、御対面申サセ給ハントテ渡セ給テ候」云々とあり、頼長は図書允俊成(としなり)を使者におくって対面しようとしたのですが、忠実は俊成に「氏ノ長者タル程ノ人、兵仗ノ前ニ懸ル事ヤ有。サ様ノ不運ノ者ニ対面セン事、コツナカリナン」と述べる。
                兵仗(ひょうじょう)=刀、弓などの武器によって傷つけられること。もしくは殺されること。
 
 「コツナカリナン」はこの場合「礼にそぐわない」の意と解せられます。「不運」な者を忌避しなければならないという忠実の運命論かもしれません。
頼長に当たった流れ矢は、左耳の下から右あごの下まで貫いており、保元の乱に参戦した貴族・武士で傷を受けた者はいても、深手を負い死んだのは藤原氏長者にして左大臣・頼長一人。
                  
 忠実はしかし保元の乱後の罪科が自分にも及ぶことを避けたかった。頼長に与したのではない、自分は中立を保っていたことを証明する一手が頼長との面会拒否でした。
「兵範記」保元元年七月十七日は、「宇治入道(忠実)が軍兵を催す由が聞こえてくるので、忠実と左大臣(頼長)の所領と官位を没収せしむ」との綸旨(後白河天皇)ありと記しています。
 
  忠実と頼長の所領をあわせると摂関家所有の大半となり、没収回避のため忠実と忠通はそれまでの確執を棚上げして奔走する。忠通にしても父忠実が罰を受ければ、摂関家の政治的権威は失墜します。
忠実の動きは電光石火で、7月20日に自らの所領を忠通に譲渡。権力を支える荘園を失ったことで忠実は朝廷から許され、「洛北・知足院に幽閉されました」(「保元物語」)。知足院は現存しませんが、現在の大徳寺近辺にあったようです。
 
  忠通はというと、広大な荘園を得ても権勢を強めることはできず、というのも、従来、藤原氏長者の一存で決定されてきた氏長者が天皇の宣旨で任命されたことで、摂関家の独立性が損なわれ、天皇や上皇の近臣(信西など)に実権が移ったのです。鳥羽院の寵愛した美福門院(得子=なりこ)の意向が、得子と気脈を通じていた忠通より幅をきかせることになる。
 
 従来、乱をおこしても降伏した者の処刑は見送られていたのですが、容赦なく処刑されます。そうした決定の背後にいたのは上記の近臣たちと思われます。彼らの目的は藤原氏の武装解除。摂関家から天皇へ実権を移行し、近臣が影で糸を引く。しかし彼らの目論見はうまくいくでしょうか。時代は節目をむかえていました。
 
 美福門院は1160年11月(旧暦)、43歳で崩御。鳥羽院から相続した莫大な財産は娘の八条院に相続されました。忠実は1162年6月(旧暦)、知足院にて84歳で死去。両名とも死神に催促される前に命を差し出すという最期でなかったことはたしかです。
 
 保元3年(1158)8月、後白河天皇から二条天皇に譲位され、忠通は息子・基実に関白をゆずって、法性寺(ほっしょうじ=現在の東福寺あたり)そばに建てた(1148年)邸宅に居を移します。もはや武士を雇うことも、興福寺の悪僧を呼びよせることも難しい状況となり、忠通の影響力も影を落としました。
 
 1162年6月(旧暦)、前述の邸で出家(法名は円観)。関白引退後、溺愛していた「五条(家司・源盛経の娘)が1163年末、もしくは1164年初め、五条の兄弟・源経光と白昼性交し、目撃した雑仕女が注進、五条の部屋へかけつけ戸を開けた忠通(円観)の目に飛びこんできたのは事におよぶ男女」の痴態だった(括弧内は「明月記」)。激怒し、経光を追いはらったあとの忠通は心が折れたように疲れはて、まもなく(1164年2月)薨去。満67歳でした。
 
 「明月記」の嘉禄元年(1225)十月十九日条に、1163年のこととして、「忠通は白昼、侍女の五条とさかんにくながひ(性行為)しているところを藤原邦綱(忠通の家司)に目撃されている」と角田文衞「待賢門院璋子の生涯」は述べています。
同著によると、「忠通は女癖が悪く、盛んにいろいろな婦人を犯し、産まれた子はすべて僧籍に入れて事をすましていた」といいます。ご乱行はご乱行で報われたのかもしれません。
 

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