2019年9月23日    西行の時代 愚管抄
 
 「保元の乱」後の信西(藤原通憲)と美福門院の結託、信西と対立した藤原信頼については次回以後として、藤原氏と分家に関する事柄を記しておきます。
 
 中臣鎌足(614−669)が藤原姓をたまわったのは「臨終の前日」(上田正昭「藤原不比等」)とされ、論拠は藤原仲麻呂が760年に編纂した「藤氏家伝」(とうしかでん)によります。「鎌足が死去した後、藤原氏を継いだ官人はしばらく現われず、次男史(ふひと 後の不比等)は鎌足死去時11歳にすぎなかった」(倉本一宏「藤原氏」)。
 
 藤原姓は「鎌足の直系のみが名乗ったのではない。文武天皇二年(698)八月十九日の詔によってである」(上田正昭前掲書)。詔は、藤原朝臣は不比等に、ほかは旧姓(中臣)に復すべしとしています。不比等の子らの時代、藤原氏は南家と北家などに分かれ、北家(ほっけ)が隆盛し、後の摂関政治を主導します。
白河院の院政を契機として藤原摂関家の権勢は影を落とすのですが、主流の摂関家のほかに、藤原公季(きんすえ=道長の叔父 956−1029)を祖とする閑院流(かんいんりゅう)や、藤原頼宗を祖とする中御門流などに分かれ、公季の子孫が立てた三条、西園寺、徳大寺に分家。鎌倉期以後、閑院流だけでも分家は29家に派生します。
 
 西園寺の祖は藤原公経(きんつね 1171−1244)で、現在の金閣寺あたりに広大華麗な山荘(その本殿の名が西園寺)を建てるなど、承久の乱の前後、公武のあいだを泳ぎ、鎌倉幕府に追従して栄華をきわめます。
 
 最後の元老と呼ばれた西園寺公望(1849−1940)に関しておもしろいのは、「2・26事件のあと広田内閣組閣のさい、貞明皇太后(昭和天皇の母)が新閣僚を呼びつけ単独で会うという前例のない行動をとったとき、皆感激の面持ちであったことに西園寺は激怒。西園寺は皇太后が政治に口を出しすぎだという強い警戒感があったようです」(「昭和天皇実録」を読む)の段。貞明皇太后は五摂家のひとつ九条家の出身です。
 
 貞明皇太后の御前では言えないので、側近か誰かに怒りをぶつけたのでしょうが、口を出す人間はそういうもので、西園寺にしても政治家引退後、口出ししたにちがいありません。ただし西園寺はここぞという大事の瀬戸際に口出ししない。口出しすべきときに黙っている。
 
 九条家の祖は1196年に関白の座を追われた藤原兼実(九条兼実 1149−1207 忠通の六男)。一条、二条家は九条家の分脈。近衛家の祖は忠通の四男・基実。名の由来は、基実の子の「基通が近衛大路の北に邸宅を構えたこと」、「兼実が九条の地に九条弟を構えたこと」(前掲「藤原氏」)。
 
 五摂家嫡流を自認していた近衛家が五摂家筆頭になったのはそれほど昔ではなく、「江戸時代初期、近衛信尹(のぶただ)が継嗣を欠いたため、妹と後陽成天皇との間に産んだ子を養嗣子に迎え、近衛信尋(のぶひろ)とした。以来、近衛家は最高の格を誇った」(「藤原氏」)といいます。 
 
 西園寺公望にもどって述べるべきことは、彼は愚痴の人であることです。いうべきときにいうべきことをいわず手をこまねいていました。みずから身体を張らず、文句をいうだけの傍観者。煮え切らない。物申す立場にあるにもかかわらず愚痴をこぼし、肝心なことはいわない。
「彼には意志を強行する情熱がなく、決断がなかった。国の生死を一身に担うものが、神仙のごとく、ひょうひょう落々としていては国が滅びる」(阿部真之助)。「彼は近衛文麿のとりかえしのつかない失敗に目をつむったのだ」(山田風太郎「人間臨終図巻」)。
             
 「愚管抄」の作者慈円(1155−1225)は忠通の13人の子のひとりですが、これはと思う侍女と所構わず情交におよんだ忠通がめずらしく寵愛した加賀に産ませた子。
「加賀は従四位藤原仲光に伺候した加賀局」(多賀宗隼著「慈円」 系図は「尊卑分脈」より)。生母は身分が低い。幼少時、青蓮院に預けられた慈円は満12歳で出家します。鳥羽院皇子・覚快法親王が1152年ここで潅頂をうけたとき青蓮院(以前は青蓮坊)と改名されました。「慈円は青蓮院第三代門主」(「青蓮院門跡の由緒」)です。
 
 「愚管抄」執筆の動機について、「保元元年七月鳥羽法皇崩御後、日本国はじまって以来の反乱というべき事件がおこり(中略)、いま書いている書物はその理由と経過を明らかにすることを主眼としている」(愚管抄巻第四)と記しています。
 
 慈円が同母兄・九条兼実の支援をうけた(天台座主を4回歴任)ことは多くの史家が指摘するところで、兼実同様、鎌倉幕府を支持しています。同母兄・兼実が摂政関白の地位についたのは、財源確保など当人の処世術と、後白河法皇と対立する源頼朝の協力も関係したでしょう。
 
 摂関家嫡流ではなく、ひそかに栄達をもとめ、虚栄のかがり火を燃やしていた兼実は財源を異母姉・皇嘉門院(聖子 きよこ 崇徳天皇の皇后 1122−1181)にたよっており、皇嘉門院(こうかもんいん)崩御後は得子(なりこ 美福門院)の娘八条院に接近、八条院お気に入りの侍女・三位局を孕ませ、産まれた男子を八条院の養子にさせる。莫大な財産が鳥羽院から得子へ、得子から八条院へ相続されているからです。
 
 こういう話をするとワケ知り顔して、いつの世もだいたいそういうことで、とつぶやく人がいます。ほとんどの公卿がそうであれば、大スポンサーは無数にいなければならず、それはない。頼朝の将軍宣下を主導した兼実は その後まもなく激化した貴族、後鳥羽天皇の反発を予測したでしょうか。
 
 「愚管抄」全七巻は晩年の60代半ばに書きはじめられ、「慈円は巻第七を書いた後、皇帝年代記を書いて、巻第一、巻第二とした」(大隅和雄「愚管抄」)。巻第六の最後は承久の乱勃発前で終わっています。巻第七は法話というか倫理論に終始、と記せばほかの巻が法話にほど遠いかといえばそうでもなく、慈円の経歴から法話的色彩が濃いのは当然で、回顧録ゆえ記憶ちがいも散見。
 
 日本史に登場する歴史書のなかで、個人ひとりが書いた最初のものということでたいへん貴重です。しかし史料として全幅の信頼を寄せられうるかどうか疑問視する史家も少なくないようです。それでも、政治の世界に深く関わらなかったことが長編回顧録を遂行させたのかもしれません。
父・忠通サイドに立って、「祖父・忠実が頼長をえこひいきしていると愚管抄に著した」(元木泰雄「藤原忠実」の意訳)のは慈円の辟論ですが、人間的一面を示す文言でもあり、記載事項の部分的真偽はほかの史料と照らし合わせて判断するか、埋もれている史料・古文書の発見、公開を待つしかないでしょう。
 
 興福寺、春日大社といった藤原氏の氏寺、氏神、そして延暦寺ほかの諸寺。興福寺は平氏による南都焼討ち、延暦寺は信長による比叡山焼討ちで焼失したものは多いかもしれませんが、そうでない諸寺、あるいは藤原家の子孫は、あそこが出さないからうちも出さないみたいな姿勢をとらず、蔵の隅々まで探して惜しみなく古文書を公開すべきです。      
 
 
    「拾翠亭」は九条家の別邸の一部で、江戸後期に建てられたという。豊臣秀吉の土地政策により京都御所の南に移された当時の別邸の
      規模は敷地10700坪、建物総計3800坪もあったが、明治初期にほとんど取り壊され、建坪40坪余りの「拾翠亭」だけが残された。


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