2018年12月30日    平安末期
 
 中学生のころ末法思想ということばが「社会」教科書の日本史に出てきました。昭和37年ごろだったのではないでしょうか。そのときは、世も末かと思うと良い印象を持ちませんでした。
昭和43年、京都の国立大学の受験科目は英数国社理5科目のうち、社会は2つ選ばねばならず、世界史のほかに得意でもない日本史も選び、古代から近代まで一通り学習したことと、受験前の2ヶ月半「祇園」花見小路の元「置屋」の2階に下宿したのがまちがいのもとです。
 
 その年1月上旬〜3月下旬、夜の花見小路は、特に建仁寺に近い祇園町南側570−121あたりを行きかうのは舞妓芸妓と酔客くらい。茶屋からもれる薄明りが夕方のみぞれに濡れた小路を照らし、人が途絶えるときの静謐と、花街の女が着物姿で歩く幽艶に魅了されました。
と同時にもののあわれを感じてしまったのです。子どものころから慣れ親しんできた京都の再発見でした。体験と何の関係もない末法ということばが祇園の夜空に浮かび、習ってまもない幽玄が石畳に映り、夜の深さに慄然としたのです。
 
 中高全学年を通じて国語は嫌いでした。主題を400字以内でまとめよ。250字で大意を要約せよ。とんでもない話です。徒然草ならともかく平安期や鎌倉期の日記は、行間に書いてはならない秘密もあり、むしろそっちのほうが主題である場合も多いのに。自らの秘めごとを書き残すには覚悟が要ります。現代国語問題に文豪の一文が出てくるのはいいとして、漱石、鴎外の意図や本心がわかるのでしょうか。教師というのはとかくひとりよがり。世間を知らない方が多い。
 
 
 そのころから読み始めた三島由紀夫でしたが、それから2年半後に読み始めた加藤周一の王朝文学ともいうべき平安期の風雅と優美にひかれ西行に行きつき、浮かんでは消える末法と「平家物語」に導かれたのは、自分でいうのは憚られるのですが、平安末期という巨大な知の壺に落ち込んだからといえるのかもしれません。
 
 いつでしたか「滅びの美学」ということばがありました。滅びに美しさがあるとは思えません。滅びは滅びにすぎず、滅者が美化されるのは、名残を惜しむというより、滅びについて語る人が自らを美化することにほかならないような気もします。滅びゆくのは過去ではなく、現在のあなたの心持ちであり、自己陶酔なのです。
 
 没落は子孫を絶えさせるかもしれない大事件。滅びが美学と言うのは、その人たちとは無関係な学者やメディアの一部で、常々それが使命であるかのごとく歴史を教訓にせよとやかましい。三島由紀夫の死後、滅びの美学に関して出版する愚社も出てきました。三島の渋面が浮かびます。
 
 平安中期、満月は自分自身と思っていた藤原道長は気配りの達人であり、構想の匠でもあったようです。政争解決に奔走した道長本人が「御堂関白記」を記したのかどうかについて疑念をぬぐえず、ゴーストライターがいたのではないかと思ったりもします。30代は実務に追われ、40歳で摂政宣下をうけた道長は多忙をきわめ、33歳から56歳にかけての日記「御堂関白記」を執筆する時間はあったのでしょうか。
 
 清盛は人使いの達人。出自は謎も多く、栄達後は福原に住み、上洛は予定のあるときか急用ができたときに限られていました。重要な会議と政務は信頼できる公卿まかせ。、治安は重盛、知盛などの息子に一任していた。後世、公卿会議と呼ばれる会議は有職故実に詳しく、実務経験ゆたかな公卿にお任せ。彼らは平家一族より有能であったからです。
 
 ほめるべきをほめ、くさすべきをくさす。評とはそういうものです。その道に精通し、不可視的領域に達したとしても、経験は知を凌駕するでしょう。達人・巨匠といえども西行、清盛の経験はできません。ほめて、またほめるのでは、ほめられる人もくすぐったいし、たまには痛いところをつかないと、その人以外はうんざりするのではありますまいか。
ほめたり、くさす前に評にかからないものもあり、そういう作品や人物を話題にするのは時間の浪費。西行、清盛を贔屓にするわけのものではないとして、和歌、武勇それぞれ異なる分野において時代を切り拓いた人物は魅力的です。芸術と戦乱は相反し、かつ並存すると思われます。
 
 芸術家を保護育成したのは洋の東西、時代の別なく王家、貴族など時の権力者。権力者は勝者です。いずれ訪れるであろう崩壊に気づかない、もしくは気づいていても時代の波に翻弄され、滅んでいくからこそ物語は成立します。
 
 歌舞伎台本は源氏を語らず平氏を語りました。通し狂言「義経千本桜」をみた人は、豪商に化け、正体をみせる知盛の豪快さを知るでしょう。源家で語られたのは、木曽義仲の父義賢をのぞけば義経と頼家です。しかし義賢以外はいずれも脇役にすぎません。執権北条家は台本作者の鼻にさえ引っかからない。唯一「高時・天狗の舞」は、北条高時の傲慢さを言いたい作者の出来心。
 
 天皇の霊をシテとした能「松山天狗」は「保元の乱」後、讃岐松山に配流となった崇徳上皇。ワキは西行。天皇でさえ波のまにまにただよい、勝者敗者に区分されます。暗殺説も飛び出すほど歴史は冷酷です。
歴史であるかぎりにおいて崇徳上皇も、処刑された英王チャールズ1世と同じように歴史として残るのです。そんなもの残さないでくれと誇り高い王は言うでしょう。滅びの美学などと思うのは当事者ではなく外野席。
 
 私は外野席の一番うしろに立っている人間にすぎません。平安末期を語らざるをえないのは、永年のテーマであり、遅きに失しても語らなければ心に残るから。いざ出陣。

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