2019年1月2日    西行の時代 序章(1)
 
 西行(1118ー1190)の生涯は平安末期、都は騒がしく、平穏と戦火が交互にやってくる末法の世と重なります。美しさに変わりはないとしても、紫式部や清少納言、古今和歌集に選ばれた人々の花より戦乱の世に咲いた花のほうが記憶に残るのは、愉悦と苦難がないまぜになった人生に感得するがごとし。
 
 平安末期、末法思想は一部の僧、貴族だけにみられた特別のものではありません。貴族の階級の別なく多くの都人にみられる流行病のようなものであり。その病は確かな病菌に起因します。
平安時代は、10世紀半ばの平将門や藤原純友が起こした乱以外に平和な時期が長くつづいたため、貴族も僧侶も日々安穏と暮らしており、貧乏貴族のほかに明日の暮らしを考えてみたこともありません。乱は都の遠くで勃発し、都に累がおよぶことは皆無、都人は異国の話であると考えていたでしょう。
 
 都において末法思想なるものが戦火の炎より勢いよく燃え広がったは、貴族、僧侶の楽観が蔓延していたことにも因りますし、保元の乱がはじまったことにも因るでしょう。4時間で決着がついた戦とはいえ、保元の乱は都でおこなわれた始めての合戦、武士が勝敗に大きく関わります。叡山、高野山とそれらの別院・分寺の僧侶はあわてふためいたにちがいありません。
武士といえば京都御所の「北面武士」という認識しかなく、僧侶、僧兵にとって北面武士は数段下の雇われ者にすぎないとみなしていました。むろん貴族の多くもそういう考えでした。
 
 北面武士の歴史はまだ浅く、白河院(1053−1129)が藤原摂関家に対して政治介入しはじめたころ、院がつくったと考えられています。白河院の権力が強くなってゆくのに比例するかのごとく北面武士の規模と勢力も増し、院が検非違使に取り立てる北面武士もあらわれたのです。
平清盛の祖父(正盛)や父(忠盛)も検非違使に任命されました。白河院がつくった北面武士制度はしかし、待賢門院璋子とのあいだに生まれたとされる後の崇徳天皇の後半生に大きな影を落とします。
 
 藤原氏一族が北面武士の加勢をえて各々敵味方にわかれ戦う保元の乱は、後世に生きる者からみればロケーションは最高です。おおぜいの観光客が訪れる日本の古都で起きたことなのです。そしてまた、武士階級が権力の座につくという歴史の大転換期であり、しかも応仁の乱、戦国時代末期、幕末のように民家の焼失、多数の死者というような惨事に至らず、死んだのは貴族と武士の一部です。
 
 保元の乱が収束されるやいなや、勝者側のひとり信西(1106−1160)は「薬子の変」(810)以来、表向き廃止されていた死刑制度を復活し、平忠正、源為義などが処刑されます。崇徳上皇は淳仁天皇の淡路配流以来、約400年間途絶えていた配流(讃岐)となりました。
 
 新興勢力でさえなかった平氏・源氏のなかには戦で名をあげる好機と発憤した若者もいたはずです。鳥羽院崩御が保元の乱の原因となり、院の子らに味方する貴族や僧侶と、彼らの思惑と異なる目的をもつ実戦部隊の北面武士が争う。洛中において親兄弟が敵味方に分かれて命を奪い合う。
大友皇子、大海人皇子の兄弟が争い、大友皇子が自害したとされる壬申の乱に較べれば、皇子の命を奪うわけではない、小さな合戦にすぎないと双方が思ったかもしれません。
 
 当時の仏教は支配階級とその一族、つまりは藤原氏とその分家、縁者などにかぎられた特殊な宗教であり、大部分を占めていた農民には仏教といえば地方の国分寺の坊さん、めったに顔をあわすこともなく、末法思想なんじゃらほいという位置づけであったはずです。農民にとってみれば食料不足と飢餓の日々が末法そのもの、末法の意味を理解したとしても、なにをいまさら、めずらしくもないと思ったでしょう。
 
 西行は北面武士でした。出家までの俗名は佐藤義清(のりきよ)。西行にとってさいわいというべきは、保元の乱前に出家したため、平氏滅亡にいたる約30年を佐藤義清としてではなく西行として過ごせたことです。
史料は、院政初期の「中右記」(ちゅうゆうき=藤原宗忠が50年間綴った日記)、保元の乱を語る「保元物語」、「台記」(藤原頼長)、平治の乱に関する「平治物語」、平氏の興亡を著した「平家物語」、「殿暦」(でんりゃく=藤原忠実の日記)、「明月記」(藤原定家)。和歌関連では「新古今和歌集」、「山家集」などです。
 
 西行の出家の原因は謎です。妻子を捨ててもなお守るべきものがあったのでしょうか。捨ててこそ救われるという考えがあったのでしょうか。すべてを捨てられるとすれば、どれほど強くなれるのか。弱点は最強の武器となるかもしれません。弱点から生じた何かが大義となるのです。
出家後もさまざまな出来事が西行に襲いかかってきます。そうした経験は西行の人生を高め、人生は和歌を高め、和歌は人生を高めました。天皇、殿上人、女御、僧侶、平氏源氏と関わった西行はまことに魅力的な人物であり、そのわずか数パーセントでも書き記したいと思っています。
 
 「永遠に消え去るものなんて一つもない。目の前からいなくなるだけ」。メリー・ポピンズの歌です。
 
 


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