2019年10月22日    西行の時代 仏と仏の評定
 
 保元の乱で矢に斃(たお)れた左大臣藤原頼長が易筮(えきぜい)を学んだのは藤原通憲(みちのり 1106−1160)です。「通憲は頼長の学才の感嘆し」、しかし「現実を直視するのではなく、経書から得た教訓によって現実を律しようという」(括弧内は角田文衞「平安の春」)という姿勢に危ういものを感じていました。
 
 1112年3月、通憲の父・実兼が亡くなり、富裕であった高階経敏の養子となり、古今の文書を広く収集読破し、抜きんでた学殖を得ます。1124年、中宮・璋子(たまこ)が待賢門院の院号を受けると待賢門院判官代に任ぜられる。通憲の本妻・藤原朝子が待賢門院の皇子雅仁(後の後白河天皇)の乳母の一人となったことが後々、後白河天皇との関係につながってゆきます。
 
 その後、鳥羽法皇院政期の1144年に少納言に任ぜられましたが、「誇り高い彼は、39歳にもなって今さら少納言にといった心境であったらしい」(前掲書)。ずば抜けた才知と任官の不均衡を受け容れられず、通憲は同年夏出家、信西となるのです。しかし俗界を忌避して出家したわけのものではなく、鳥羽法皇への伺候を断ったのでもなく、頼長とのつながりも保っていました。法皇崩御直後に勃発した保元の乱(1156)で頼長と敵対するまでは。
 
 1158年(保元3年8月)、後白河天皇は東宮守仁親王(二条天皇)に譲位します。問題は、この譲位が「仏と仏の評定」により決められたと「兵範記」保元3年8月の条に記されていることです。仏とはすでに出家している生き仏、美福門院(得子 なりこ)と信西をさすと大方の史家の見解。
鳥羽法皇の寵愛を独占していた美福門院と八条院(法皇とのあいだに生まれた娘)は法皇所領の大半を相続し、後白河天皇はまったく相続できず、経済的基盤に大きな隔たりがありました。
 
 そういう事情で後白河天皇は譲位し、上皇となったにもかかわらず院政を敷けない状態。実質的施政は信西が仕切っており、息子や息のかかった縁者を公職につかせていた。ご親戚&お友だち官僚。
 
 ここで思い出してもらいたいのは得子の出自。得子は藤原一族のなかでも末流の出でした。父・長実の地位(権中納言)が保たれたのは、得子の祖母が白河法皇の乳母であり、祖父・顕季が白河法皇の近臣として仕えたことによります。
得子と信西の共通点は家柄・身分の低さです。成り上がった者は、家柄に恵まれた者に対して寛大になれず、ときに冷酷。
 
 得子はそれでも皇后から女院と最高位に上りつめた女ゆえ、まわりの目もそうは厳しくない。しかし地位も高くないのにわがもの顔にふるまう信西は、財力という点でも保元の乱後、たてつづけに息子たちがそれぞれ美濃、播磨、信濃の三カ国を得て、摂関家と美福門院に次ぐほどの資産家となり、かえってほかの貴族の反感を買う。
 
 キジも鳴かずば打たれまいという言葉がありますが、信西はキジでした。
すんなり即位したのではなく、周囲の思惑によって天皇の座に押し上げられた後白河天皇の信任が厚かったのも、いわば同病相憐れむ的な思いであったのかもしれません。政治は統治能力と調整能力が求められ、才知に長けたキジはスズメではなかったけれど、結果的にタカでもなかった。
 
 保元の乱後、「天から降ってわいたような」(「平安の春」)立場に置かれた信西は内裏の刷新に乗り出し、その勇み足が二条天皇の近臣・藤原信頼、成親などの政敵を生み出すこととなるのです。
 
 信頼、成親から見れば、「たいした身分も家柄もない人物が後白河上皇の傍らで事実上その代わりの仕事をしていた。そのことは名門の院近臣たちにとっても許しがたい行為に映ったことであろう」(美川圭「院政」)となります。「個々の政治的立場を越えた、反信西連合というものが形成される」(前掲「院政」)主因です。
 
 魚心あれば水心、不満を抑えるためには身銭を切ってでも差し出すべきものを差し出さねばなりません。資産が増えて文句を言う人間はいないでしょう。旧弊な貴族社会のなかで信西に欠けていたのは人心掌握術の修得。
 
 信西は交誼のあったタカ・平清盛を味方につけており、信頼、成親ほかの不満分子など何するものぞと気概に満ちていたでしょうが、相手もそれにふさわしい武力を味方につけるのは必須であり、保元の乱で武勲を立てたが清盛ほどの恩賞を授からず、おもしろくない気持ちの源義朝に白羽の矢を立てます。
 
 都を舞台とした初めての戦にうんざりしている人々の誰が3年後の平治の乱を予想したでしょう。壇ノ浦において決着するまでの26年間、清盛による都の平安はあったとしても、源平盛衰の発端は、仏と仏の評定に起因するのかもしれません。
 


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