2019年11月2日    西行の時代 平治の乱
 
 譲位し上皇となった後白河帝はいったん信頼を信任していたと「愚管抄」巻五は述べているのですが、一方で信西を重用しました。信西の息子たちの位階があがったのは、才智の裏付けによるところ大であっても、「信頼は信西をねたむ心を持つようになった」と愚管抄は記しています。
 
 息子のひとり俊憲(1122−1167)は、「保元の乱の翌年検非違使の宣旨を受け、さらに二条天皇(後白河帝の子)即位後も蔵人頭となり、都警護の要職は信西によっておさえられ、」(五味文彦「平家物語、史と説話」)とあります。
 
 義朝に対しても信西は素っ気なく、義朝が娘の婿に信西の子をむかえたいと申しでたところ、「私の息子は学問を修める道の途上にある。そなたの婿には適していない」とにべもなく断り、清盛の娘の婿にしてしまう(巻五)。
十分な恩賞を与えられなかった義朝にしてみれば、清盛と同等のはたらきをしたはずなのに割を食っているという思いだったでしょう。愚管抄はそのあたりについて、「二つ三つの事柄が重なりあって悪いことが起こってくると、いいことも悪いことも、その時に運命は決定する」(大隅和雄訳)と述べています。
 
 平治元年12月9日(1160年1月19日)の概容を大雑把に記すと、後白河上皇派の信西に対して派内の信頼らが義朝の武力を背景に挙兵、上皇の三条東殿(三条烏丸)を包囲し火を放ちます。
上皇は拉致され、二条天皇の住居の一隅に幽閉されました。信西はいったん逃れるのですが、自分を土中に埋めるよう家人に命じます。しかし遺骸を敵に見つけられ、12月17日首をさらされる。熊野詣に行って不在だった清盛は同日帰京。
 
 清盛は味方をするとみなしていた信頼の予想に反して清盛は中立の立場をとります。最高位の人物をとりこむまで去就を明らかにしないというのが清盛の食えないところ。
都不在中に信頼がことをおこすと予測していたのであれば熊野詣は計画的であったのかもしれません。経緯や規模は異なりますが440年後、上杉征伐に行くとみせかけ三成の挙兵を煽った家康と共通するものがあるとも思えます。
 
 乱は信西の死で終結せず、様子見をしていた鳥羽院政末期からの有力者・内大臣藤原公教(きみのり)が信頼に反発、二条天皇の近臣(藤原経宗、惟方)に二条天皇の清盛・六波羅邸への行幸をもちかけます。打倒信西で信頼と団結した経宗、惟方は政治力の保持が目的ゆえ、義朝の武力を後ろ盾にしている信頼を増長させるわけにはいかない。
 
 12月25日、惟方はまず「後白河上皇を仁和寺へ脱出させ、その夜、清盛とはかって二条天皇を女房車に乗せ内裏を脱出、六波羅の清盛邸に迎えた」(美川圭「院政」)。
「愚管抄」は、「上皇につづいて美福門院もおいでになった。大殿(慈円の父・忠通)、関白(忠通の子基実)も手をたずさえて来られた」と述べ、さらに、「内大臣公教が清盛に、関白が来られたがどうしたらよいだろうと言うと、清盛はためらうことなく、おいでにならなければおつれせねばならなかったやもしれませんが、ご自分で来られたのですから殊勝でございますとこたえ、聞いていた人は立派な意見だと感心したという」。
 
 「愚管抄」はつづけて、「その夜のうちに清盛方は都中に「天皇は六波羅へ行幸なさったぞ。六波羅にお移りになったぞとふれ歩かせ、騒がせた」と述べています。「26日朝、信頼・義朝らはようやく事態の急変を知る。天皇と上皇を奪われたため、いっきに賊軍に転落したのである」(美川圭前掲書)。
 
 それまで信頼と義朝に味方していた武士は次々と清盛側に寝返ります。乱は結局、信頼の斬首(12月27日とされる 満27歳)、義朝の謀殺(「平治物語」によると12月29日)で収束したかにみえましたが、続きがあります。
 
 経宗、惟方は後白河上皇に政権を渡してはならない、政治は二条天皇がおとりになるべきと力説し、それを耳にした上皇は清盛を召し出し、二人を縛ってこらしめてくれと懇願したそうです(「愚管抄」)。もっけのさいわいとばかり清盛は郎等に命じて永暦元年(1160)2月20日に二人を捕縛し、翌月、経宗は阿波、惟方は長門へ配流となるのです。
 
 彼らが捕らわれる3ヶ月前、平治の乱勃発の責任を問われて流罪となった信西の子・俊憲などが、配流先から呼びもどされるのですが、時代は急転直下、波乱含みの変動期をむかえていました。
                   
 
         2019年10月31日午後5時35分ごろ自宅から撮影した三日月


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