2019年11月27日    西行の時代 平家の台頭(1)

           2019年11月12日 自宅から撮影した満月
 
 「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」とうそぶいたのは清盛の妻時子の弟平時忠(1130−1189)であると「平家物語」巻第一「禿髪」(かぶろ)に記されています。
時忠の異母妹・滋子(後の建春門院 1142−1176))は「後白河天皇の姉・上西門院の女房でしたが、後白河の目にとまり、皇子憲仁(のりひと 後の高倉天皇 1161−1181)を出産した」(高橋昌明「平家の群像」)。
 
 時子は二条天皇(後白河天皇の第一皇子 1143−1165)の乳母。「乳母といっても実際にお乳をあげるのは、御乳人(おちのひと)という身分の低い女房で、彼女は制度上の乳母の一人である。これは夫清盛が天皇を後見する立場にあったことを意味した。」(平家の群像)
二条天皇は1158年即位後、後白河上皇と対立し、清盛は二条親政派に加わります。時忠は憲仁親王を皇太子に立てるべく画策したため二条天皇の怒りを買い、官位を解かれ、翌年(1162)、天皇呪詛の罪で出雲配流となります。
 
 時忠にさいわいしたのは二条天皇崩御によって清盛が一定の距離をおいていた後白河上皇に接近したことです。「前々から千手観音千体を安置する御堂の建立を願っていた後白河上皇に対して清盛は蓮華王院(三十三間堂)を造り、落慶供養が長寛2年(1164)12月17日に催されます」(「愚管抄」)。
 
 1164年に関白藤原基実(忠通の子)と清盛の娘盛子の婚約が成立しますが、その2年後、基実は1166年満23歳で急死。「摂政の岳父という立場を利用して政治的権威を高めるとともに、摂関家領に平氏一門を進出させて経済的基盤にしようとした清盛の目論見はいったん頓挫するかにみえた。」(元木泰雄「平清盛の闘い」)。
 
 そういうとき摂関家の家司が清盛に進言します。盛子の後見役・藤原邦綱(1122−1181)です。
邦綱は摂関家の主要な荘園や宝物などは、基実の弟・基房でも基実の子・基通でもなく盛子が管理すべきと述べ、清盛は膝を打って基房に少々の荘園と興福寺、平等院など寺をあたえ、摂関家領の多くを盛子の管理下におき、平家の経済的基盤とする。邦綱の娘・輔子(すけこ)は清盛の五男重衡の妻で、後に出家し寂光院の建礼門院に仕えました。
 
 時忠は学才と実務に長け、政治手腕もあったようですが、清盛の支援に負うところも大きく、清盛の栄達とともに検非違使別当、権中納言に昇位。仁安2年(1167)、皇太子生母の滋子は女御となり、高倉天皇即位(1168)の翌年に滋子が建春門院の院号を賜り女院となり、時忠も女院庁別当となるのです。
 
 清盛は仁安元年(1166)内大臣に、1667年に太政大臣となります。太政大臣はいわば「名誉職的な官職」(平家の群像)で、とはいえ「2年程度はその地位にあるのが普通だが、彼は同年5月、就任後3ヶ月でさっさと辞し、政界の実力者として君臨する」(平家の群像)。
「清盛の太政大臣就任は後白河上皇の思惑があった」(元木泰雄)。つまりは清盛を祭り上げておいて、政治の中枢から離しておくという意図です。ところが清盛は上皇の心は先刻承知、早々辞任したというわけです。しかし清盛は前太政大臣という権威を利用します。
 
 人生順風満帆とはいきません。翌1168年清盛は重病となる。平家興隆をおもしろくないと思っていた公卿たち、なかでも右大臣九条兼実(1149−1207)は日記「玉葉」に、「天下の大事ただこの事にあるべし」とか、「いよいよもって天下乱るべし」などと記しています。人心ここにあり、清盛のほかに統率力を示す人物がいなかったということでしょう。
 
 「天下乱る」と兼実が憂慮したのは元木泰雄「平清盛の闘い」によれば、「彼の死去は後白河や憲仁の動揺、六条や以仁王を推す徳大寺家の台頭をもたらす可能性があった。後白河・憲仁によって安定しつつあった皇統が、再び不安定になると見られたのであり、乱れるという言葉はこうした混乱状態を意味するものと考えられる。
(中略)清盛の重病に最も衝撃を受けたのは後白河院であった。院は急遽熊野参詣を切り上げて帰洛するや、六波羅の清盛を訪ねた。そして、ただちに六条天皇から憲仁(高倉天皇)への譲位を決定したのである。」
 
 しかし清盛は大病を契機に時子とともに出家(1168)、入道相国の誕生です。「相国は太政大臣の唐風名称」(美川圭「院政」)。
 
 承安元年(1171)12月、清盛&時子の長女徳子(のりこ1155?−1214)は6歳年下の高倉天皇に入内します。
「清盛が有名な平家納経を厳島神社に奉納した(1164)のは、徳子の将来の入内を願ってのこと、との興味ある説もある。ちなみに徳子という名は名字(めいじ)といって入内に際し命名された名である。滋子の場合も同様で、このクラスの女性ですら本名が伝わるのは稀だった。」(平家の群像)。
 
 執政者の影にまわって隠然たる権力をふるう清盛は信西の二の舞を演じなかった。有職故実に長け、政務担当能力に秀でた人材は当然、気脈の通じた者を配しましたが、素人同然の息子たちに政務を任せるという軽はずみな行動は慎む。公卿からの反発を避けたかったからです。
承安元年(1171)、女御となった徳子のもとへ参内した公卿は「平家の群像」によると左大臣藤原経宗(徳子の養外祖父)、権大納言隆季(子の隆房は清盛の婿)、権中納言邦綱、同花山院兼雅(婿)、参議家通(養子)ほか親・清盛の面々。
 
 「この時期の国家の意志は、弁官と、職事弁官(しきじのべんかん)を調整役とする天皇・院・摂関の合議によって決定されるようになっていた。王家と摂関家による意志形成を補完・下支えする役割を果たしたのが公卿会議である。
院御所や清涼殿で行われる会議、さらに議政官(現職公卿)会議などがあり、議政官は多いときでも五人。治承3年(1179)時点で重盛(内大臣)、宗盛(権大納言)など五人が議政官になっている。ところが、公卿会議に参加した形跡がまったくない、重盛でさえ」(平家の群像)。じっさいに会議を開いたのは、女御徳子のもとへ参内した経験豊かな面々でしょう。
 
 平家の人々は元々軍事貴族であり、有職故実に長じた人々でもなく、政務処理能力を経験から学び取った貴族でもありません。清盛の人使いのうまさ、清盛&時子の係累で成り立っていたのが平家ファミリーの側面といえます。しかしそれでも、出る杭は打たれるのたとえのごとく清盛を不愉快に思う人々はそこかしこにいるのです。

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