2019年12月20日    西行の時代 平家の台頭(2)

                      京都御所 承明門と紫宸殿
 
 清盛を史上初の武家政権とみるかどうかで平安末期の政治史の見方は変わるでしょう。平治の乱で完璧とも思える勝利をおさめた清盛に肩をならべる勢力がなかったのは確か。しかしだからといって政権をにぎったのではなく、政治の決定権は上皇または法皇、天皇にありました。
 
 清盛は軍事貴族の頂点に立っていても、彼に従属し、号令一下で動かせる武力は限られていました。忠盛からの伊勢平家がそれに該当し、叡山や南都奈良の反乱に対しては知盛、重衡など息子に命じて制圧できるとして、地方への追討は都の武士団だけでなく地方にいる軍団をかき集めなければなりません。清盛に従属する地方武士は多くなかったのです。
 
 地方武士を動員派遣する命令権は朝廷が持っていますが、清盛は都の治安部隊をほぼ独占しており、朝廷を動かし地方武士団を動員するのは簡単であると考えていたのかもしれず、地方武士団の存在を甘くみており、内政面の意識は王家に向いていて、強烈な危機感はなかったのかもしれません。そこが頼朝や執権北条氏の鎌倉幕府とはちがったのでしょう。
 
 清盛の国政は親平家の貴族によって代行されていたという一面があります。いうまでもなく高倉天皇の中宮は清盛の娘徳子(後の建礼門院)、親平家の公卿とは姻戚関係。後白河帝の寵愛した女御・滋子(後の建春門院)は時子の妹。
 
 平家こそ史上初の幕府(六波羅幕府)であり、清盛は都ではなく福原に常住し、主だった公卿に代行させる方式は鎌倉幕府に受け継がれた(高橋昌明「平家の群像」)とする説もあります。六波羅幕府云々はともかく、頼朝が清盛の手法を参考にしたのは確かと思われます。
 
 内政では従来型を崩さなかった清盛は外交を重視します。日宋貿易です。中国との交易地といえば太宰府で、太宰府に近い博多の唐人町には中国人が出入りしていました。
清盛は保元3年(1158)太宰大弐(次官)に就き、現地の有力者を配下にして太宰府を支配、そして仁安3年(1168)私財を投じて大輪田泊(兵庫)の整備に取り組み、嘉応2年(1170)9月、瀬戸内海をわたって交易船が来港します。
 
 同年同月、清盛は後白河法皇を福原(神戸)の別荘に招き、宋人に面会させます。「玉葉」に「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」と記されているのは、美川圭「院政」によると、「異国をケガレの世界とみなし、京や畿内をケガレから隔離し清浄に保とうという貴族の感覚からすれば、日宋貿易はおろか後白河や清盛が外国人と対面することは許しがたいこと」とあります。
 
 玉葉は清盛を快く思っていなかった九条兼実の日記ゆえ、「我が朝云々」は気張った表現にも映りますが、平安の一時期つづいていた鎖国を開放するという清盛の考えに後白河法皇も同調したわけで、両者の長からぬ蜜月。
嘉応元年(1169)12月下旬〜嘉応2年1月は延暦寺の強訴に対して後白河法皇からの出動要請があったにもかかわらず重盛麾下500騎は応じず、悪僧らが御所になだれ込み、法皇の不興を買った平家でしたが、海を見おろせる清盛山荘滞在は法皇の気分を一変させたのでしょう。
 
 清盛は隠棲生活のために山荘(福原別荘)を造営し、そこを拠点に日宋貿易を采配したことが「平清盛の闘い(元木泰雄)」に記されています。清盛は福原で千僧供養もおこなったといい、法皇も出席。
離れてはくっついていた関係は1176年7月、建春門院崩御によって崩れさります。美貌と才智のほまれ高い女院は蔭に日なたに法皇と清盛の調整役を担って平家一族を支えてきましたが、1176年早春、有馬温泉湯治を最後に34年の短い生涯を閉じるのです。
 
 「愚管抄」巻第五は、「建春門院が崩御されて後白河法皇はしだいに荒れていくように時が移り、そのような中、藤原成親が法皇に愛でられ、僧西光などと共に特別に召し出しておられた。また、法勝寺の俊寛を僧都に格上げされた」と記しています。
 
 法皇は西光を成親の養子とし家格を上げさせてもいる。親王時代、遊びに興じ、今様(文字通り現代的という意の歌曲)を興じるときは遊女、傀儡師も呼ぶなど法皇の好みのままに人選したようです。庶民と距離をおかない親王であり、それはそれで庶民性の発露とでもいうべきかもしれませんが、度が過ぎたので父(鳥羽院)や摂関家の印象もわるかった。
 
 西光の子師高は延暦寺の強訴(安元3年1177)によって配流となりますが、強訴はこうです。師高とその弟は加賀守と加賀目代をしており、彼らが白山の末寺と争い、堂舎を焼き払ってしまう。白山は延暦寺の末寺で、彼らの父親西光は法皇近臣だったことから事件は拡大します。世にいう白山事件。
 
 延暦寺は衆徒を入洛させ師高兄弟の処分をせまり、法皇は西光の手前、重盛に命じて延暦寺の衆徒を弓で射殺し、わるいことに重盛の部下の放った流れ矢が神輿に当たる。これで法皇の立場は難しくなって、しかたなく師高を尾張に流します。
 
 事はそれだけでおさまりません。それからわずか2週間後の4月28日、都をおそった大火は洛内北半分を焼き、内裏も焼失。「玉葉」は「このたびの炎、焼死した者はなはだし。ケガレ洛中に満ち、常の焼亡の例にあらず」と述べています。
その3日後の未明、仮中宮庁の小屋に盗人が入った。都の警護は平家一門の必須任務です、このような事態が生じると治安は乱れ、公卿や法皇の非難は清盛らに向けられる。
 
 後白河法皇は堪忍袋の緒が切れたのか天台座主明雲を解任逮捕、伊豆への配流を決めてしまいます。罪状は衆徒の強訴。法皇が下した前述の処分は何であったのかアタマがこんがらがってくる。
ところが、伊豆に連れられていく道中、延暦寺の悪僧によって明雲を奪い返されてしまいます(白山事件パート2)。怒髪天を衝く状態の法皇はとうとう延暦寺攻撃を命じるのです。
 
 命をうけた重盛、宗盛は清盛の下知がないと動けないと法皇をはぐらかす。そこで5月28日(1177)、法皇は福原から入洛した清盛に延暦寺の件を伝える一方、近江、越前、美濃の武士に延暦寺攻略を命じます。
清盛が先延ばしの言い訳を思案していたであろう折も折、鹿ヶ谷の俊寛所有とされる山荘=「平家物語」。「愚管抄」巻第五では、信西の子・静賢(じょうけん)所有=で宴席が開かれていました。主な面々は成親、西光、俊寛、多田行綱など。
 
 鹿ヶ谷で何があったか、ほんとうのところはわかりません。何らかの密談があったのはあったでしょうが、平家にまつわる密談ならそこかしこであったでしょうに、平家打倒の謀議だったのかどうか。
 
 行綱は6月1日未明、平家打倒の謀議がなされたと清盛に密告します。電光石火のごとく行動した清盛の兵に捕縛された西光は拷問され斬首、成親は配流先で暗殺、俊寛ほかは鬼界島に流されました。手回しのよいこと。
前掲「愚管抄」に、西光の自白書を携え法皇の御所へ参上した清盛の身なりは、福原へ帰っていったときと同様の旅装であったと記されています。
 
 行綱は後白河法皇に仕えた北面武士ですが、清盛に与し、木曽義仲にへつらい、義仲を滅ぼした義経にも近づくなど信用できないどころか、武士の風上にもおけない男です。
これで助かったのは清盛。法皇命令を回避し、延暦寺攻略による多数の犠牲者を出さずにすんだということになります。鹿ヶ谷の陰謀とされる事件はミステリー。

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