2020年1月4日    西行の時代 平家納経と厳島(1)
            
    清盛(1118−1181)の厳島神社信仰は安芸守として赴任した久安2年(1146)2月にさかのぼります。その前に清盛の出自について。「平家物語」の話では、父忠盛が白河法皇の寵姫祇園女御をたまわり、まもなく生まれた清盛は法皇と祇園女御の子とされてきました。
 
 しかし鎌倉期初めの「仏舎利相承次第(滋賀県多賀町・胡宮「このみや」神社の文書)」に記されたという「祇園女御の妹が法皇の寵愛をうけ、忠盛に下賜された」との記述により、清盛の母は祇園女御の妹であることが明かされる。
風聞がまことしやかに事実であるかのごとく語られた時代であり、裏づける古文書もなく真偽は不明。ほんとうなら法皇64歳のとき孕ませた子が清盛ということになるでしょう。
 
※美川圭著「院政」によると「胡宮文書とは、白河院が中国・育王山などから渡来した仏舎利二千粒を祇園女御に伝え、それが清盛に伝えられたことを示す系図」」で、そこに祇園女御の妹が懐妊後、院が忠盛に賜い、子の名は清盛、また祇園女御が清盛を養育したと記されているそうです※
 
 清盛が厳島神社に経巻を奉納(平家納経)したのは1164年。平家納経の願文(清盛の自筆とされる)の一部に、久安5年(1149)高野山奥院の阿闍梨が清盛に語った話として、菩提を願うには伊都岐島社(厳島神社)に祈誓すればかならず発得(身に得る)する云々とあります(竹内理三編「平安遺文」が裏付けるのは「金剛峯寺大塔事始日記」)。
 
 平家納経全33巻(国宝。法華経8巻や阿弥陀経1巻など)のうち「紺紙金泥般若心経」(清盛書写とされる)に添えられた願文は、「弟子清盛敬白」で始まり、発願の趣旨、経緯を見事というほかない筆遣いで記されています。
願文の終わりに「権中納言従二位平清盛」と署名。厳島神社神主は佐伯景弘(生没年不明)。清盛に接近し厳島再興をはかり、平家滅亡後、頼朝に取り入った人物です。
 
 阿闍梨のことばは清盛が厳島神社に帰依する一因となったかもしれませんが、安芸守就任以降のめざましい栄達とともに信仰はいっそう深まっていったのでしょう。ご利益なき信仰は日本人の性質に見合わないのです。
 
 経巻33巻のうち清盛、盛国などの署名があるのは6巻で、残りは無署名です。一部に署名し、大部分を無署名のまま奉納したのはなぜか。その疑問を解明するのが学者・専門家の使命といえるでしょう。
 
 承安4年(1174)3月、清盛は後白河法皇、建春門院の厳島御幸を実現させ、、治承元年(1177)に時子(二位の尼)や平家一門をともない千僧供養(厳島神社の南北回廊に僧侶千人を配した法華経供養)、一切経会(一切経5048巻を転読)などをおこなっています。
きわめつけは高倉天皇に入内した娘徳子(のりこ)の安産祈願。「愚管抄」によれば、二位の尼が日吉神社(大津市)に百日詣でをしてもご利益がなく、清盛が、「おまえが祈っても効きめはない、まあみていなさい、験力を引き出してみせよう」と福原から船に乗って厳島神社へ月参しました。
 
 2ヶ月ほどたったある日、中宮徳子の懐妊に報せが届き、治承2年(1178)11月、六波羅邸で皇子が誕生、後の安徳天皇です。清盛は念願の外祖父となったのです。清盛と平家にとって厳島神社は神さま仏さま。
 
 高倉天皇が安徳天皇に譲位し上皇となって初めての神社参詣に選ばれたのは厳島神社。それまでの上皇は石清水八幡、春日大社、賀茂、日吉など都周辺の神社へ参詣しています。
「これは先例を破るものであり、京都の宗教秩序をになってきた延暦寺、園城寺、興福寺にとって、その既得権を根底から脅かしかねない重大事であった」(美川圭・前掲書)。
 
 しかし平家納経は謎が多く、厳島神社に関して清盛の別の事情が存在したと推論されています。
昭和16〜17年、「国華」初出の小林太市郎「平家納経考證」(淡交社1974刊「小林太市郎著作集5」)で詳細な考察がなされており、私は角田文衞著「平家後抄(こうしょう)上」の「さまざまな運命」の一文で存在を知り、淡交社本を読みました。あれから25年、過ぎ去れば夢のごとし。
 
 清盛の第七女を産んだ女は厳島神社の巫女(「源平盛衰記」)で、清盛が家人平盛俊に下賜した彼女は、清盛の寵愛ののち盛俊、盛俊が一ノ谷で討ち取られたのちは土肥実平(?〜1191?)に愛されたと伝わり、小林太市郎は、「恐らく人を悩殺する魅惑があった者にちがいない」と述べ、「平家納経の謎を解く者は、或いはこの厳島の巫女かと思われる」と考証をつづけるのです。
 
 古代、懐妊を願った婦女が厳島に集まって神に仕える巫女の集団となり、内侍と称したのか称されたのか、参詣者の旅情をなぐさめるに至ったのが厳島内侍であると述べています。歌舞管弦の技をみがき、華麗をきわめたそうです。舞は優美、幽艶で薫り高く、評判を呼んだでことしょう。
高倉天皇の厳島御幸に同行した通親(土御門通親 1149−1202)の日記に、「さまざまな花つけて田楽つかまつる。八人並びは天人の降り遊ぶもかくやとぞおぼゆる」(平家納経考證)、「内侍どもが舘をしつらい」諸夜を過ごし、帰途につく日は内侍が水際に出て、名残を惜しんだともいいます。
 
 神に仕える神官、巫女は身体を清潔に保ち、そのための禊ぎを欠かしません。巧みな歌舞管弦もさることながら、端麗でかぐわしい匂いを放つ女体はすべすべで、しっとり。肌に惹かれた男の顔が見えてきそうではありませんか。
 
 平安時代の美人といえば下ぶくれと思うのは間違いで、おかめ顔の始祖アメノウズメに由来する面(仮面)は後世の狂言では醜女ですが、お亀あるいはお多福といわれ、福の象徴。
大和絵にえがかれた下ぶくれは栄養失調ではなく、むろん美人でもなく福ということです。生身の厳島巫女はすっきりした面立ちであったと思われます。
 
 巫女のなかには都をひとめ見たいという者がおり、客人を送りがてら都についてくる内侍もいました。西八条の清盛邸に住みついた内侍もいて、それら女友だちに再会するためにも上洛したでしょう。清盛は巫女たちの大スポンサーでした。
厳島神社神主・佐伯景弘が巫女を連れて福原や西八条邸、あるいは院御所に上がり、装束を身にまとった巫女が舞を披露したという話も伝わっているそうです(村井康彦「小林市太郎氏の「平家納経考證」について)。
 
 八条邸は大人数。現在の西本願寺界隈と西大路七条で半月ごとにひらかれた東市(ひがしのいち)や西市(にしのいち)の米、麦、塩、魚、油。味噌などを仕入れに清盛邸から使いが走り、黙っていられず、都にもまれな美女集団の話をし、くちさがない商人、京雀は噂をまき散らしたはず。
平治の乱に勝利し、あれよあれよという間に出世する清盛さんはさすがに女をみる目も、とほめそやしたかどうか知るかぎりではありません。
 
 
 
              京都山科「毘沙門堂」観桜会  巫女の舞


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