2020年1月8日    西行の時代 平家納経と厳島(2)
 
 「平家納経考證」の美術史家・小林太市郎(1901−1963)の文章は魅力的です。西陣の織元の子息は染織学校へ行き、同志社専門学校から京都大学哲学科へ。
1950年以来の神戸大学文理学部・教授時代、講義は他の教授が聴講にくるほどであったそうです。難解なことをわかりやすく話し、しかも快刀乱麻だったからではないでしょうか。
 
 1952年同学部の教授となった谷信一(1905−1991)によれば、彼は教授会は当然のごとく欠席、ほかの会合にも出席せず、社交から離れ、多くの人々は気むずかしさと思いこんでいたようですが、一片の案内状ですませず礼をつくせば出席したとか。
長く生きられないことを知っていたかのごとく和漢洋の碩学は読書を重視、一に読書二に読書、三四がなくて五に食事という按配と記しています(小林太市郎著作集5付録・月報2「小林太市郎の本領」)。
 
 彼はパリの大学に3年間留学する。観光名所やカフェで過ごす時間より美術館、大図書館で過ごす時間のほうが長かった。膨大な書を読みあさり、まず自身の博覧強記を鍛えようと考えていたのかもしれません、卓見と推理が知識を凌ぐために。
 
 小林太市郎がパリ大学で習得したのはモノをみる眼、心眼ともいうべき識別眼でした。教わる者にその眼なくして何を学べというのか。第一次大戦に従軍した兵士、犠牲者の死をむだにしないという気運がみなぎっていた1920年代のパリ。
大学や町に活気があふれ、学究だけではなく人間も深めなければという気持ちはおのずと高まったでしょう。土地にも魂が宿っているのです。
 
 前掲「著作集5」の解説で美術評論家・白畑よし(1906−2006)は、密教の潅頂法会で使われた山水屏風に関する小林の論考文を、「まるで絵巻物を繰るように具体的に解かれている」と記し、さらに、美術史論文は史料を引用しても、小林のように文章を工夫し、読者を魅了するものはすくないと述べています。
人を惹きつける文章の母は感性なのです。白畑よしは小林自身が語ったとして、長年西陣で暮らしていたせいか、京都に内在するさまざまな不思議を体得したから、論理的に言及しにくいことを平易に説明できるのだろうと評価。
 
 平家納経が初めて一般公開されたのは紀元2600年にあたる昭和14年(1939)、奈良国立博物館において国粋文化を高めるためということで特別陳列されました(白畑よし記述)。
小林太市郎が「国華」に「平家納経考證」を発表したのはその2年後ですが、小林の論考は国粋主義とは無縁で、従来の定説と異なる画期的なものでした。
 
 小林のように人付き合いをおろそかにすると、もしくは無視すると非難されます。クチには出さなくてもそれが日本です。これから述べることなのですが、平家納経についての小林太市郎説は学界で定着していません。
学界には歴史も美術も師の教えを踏襲してこそ階段をのぼるという風潮が厳として存在する。新説を肯定し、旧説を否定すれば学内に居場所がなくなる。
 
 日本の美術史界はヨーロッパに較べてかなり遅れており保守旧弊。昭和初期に黎明期を迎えたにすぎません。当時の東京帝国大学教授=権威が唱えた説を弟子が踏襲し定説となっています。
平家納経は平家一門が総力をあげて書写し厳島神社に奉納したものであり、平安末期の美術工芸の粋を集めた作品であるというのが定説です。文部省はそれに基づいて教科書を作成。
 
 先人の説は目の利く専門家による史料の精細な再調査や、新史料の発見によって見直されたり覆されることもあるのに、既成概念のごとく定着し、ほとんどの人が信じこんでいる。学校で習ったとか、教科書に載っていたとか、新聞に書いてあったと言う。
 
 小林太市郎の「平家納経考證」の要点はこうです。
(1)平家納経に署名しているのは、清盛、平盛国、盛信、重康の4名。それも全33巻のうちわずか2巻に署名しただけ。2巻のうち1巻は清盛代筆とみられる。
(2)盛国は平家郎党の重鎮で、清盛の公私にわたる事態を処理する大番頭役であったこと。盛俊は盛国の子で、重康は清盛の祐筆であったらしいこと。
 
 (3)平家納経の成った長寛2年(1164)、清盛と厳島内侍(巫女)とのあいだに女子が生まれ、その前に清盛は懐妊中の厳島内侍を盛俊に下賜し、女子は自分に娘として引き取ったこと。娘は後に御子(みこ)姫君と呼ばれる。
 (4)納経の願主は清盛ではなく、厳島内侍である。彼女は清盛の子を無事に産むため、そして盛俊に下賜される罪を安んじさせ、気持ちを晴らすため清盛に懇願し、願主となったこと。肝心の納経日に清盛は厳島神社へ参詣していないこと。
 
 (5)納経作成にたずさわる絵師などの費用は清盛が持ち、人選そのほかは盛国に任せたこと。人選過程において厳島内侍も関わっているであろうこと。
 (6)平家一門は納経に対して甚だ冷淡で取り合おうとせず、署名する者さえおらず、しかたなく大番頭の盛国が気心のしれた人たちを選んで署名、もしくは代筆させたと思われること。
 
 (7)清盛の主唱が理にかなっていると平家一門がみなしたのであれば、一門こぞって恭しく署名したであろうけれど、内侍が相当関与していることゆえ署名せず、逆に盛国は、一門が署名しないなら最重要でないと考え署名した。
 
 そういうことを前提に小林太市郎は「平家納経の見返り絵には、単なる経巻の装飾画でも礼拝の対象たる仏画でもない、自由な画材のうち当時の人の静かな宗教的情感がゆたかに濃く、美しく表現されている」と記し、「この点においてきわめて貴重であり、妖艶で比類なき花苑ともみられるのである」と続けています。
 
 「平家物語」と「源平盛衰記」は、内侍の産んだ御子姫君は治承5年(1181)に18歳(数え年)であったと記し、逆算すると長寛2年(1164)の誕生ということになります。
それはともかくとして、もしかしたら厳島内侍が巫女となったのは親のいない子だからではなかったでしょうか。清盛が寵愛したのは、単に容姿がすぐれていたというだけでなく、彼女の生い立ちを自分自身に置きかえ、フィードバックしたからではないでしょうか。育てられなくても育ってゆく、魅力とはそういうものです。
 
 母親を幼少時に失い、父親が忠盛なのか誰かもよくわからない子ども時代をすごした自分を顧みて、平家の棟梁清盛より人間味ある清盛がまさり、内侍の願いをききいれたのではないか。
厳島神社への納経は内侍と生まれてくる子への贈りものであった。贈りものなら一門の署名を必要とせず、関係者の盛国(郎党)などの連署で十分と考え、盛国は清盛の心を読み、協力を惜しまなかった。清盛のそういう思いは平家一門にわからなくても天に届くでしょう。
 
 平家納経は平氏一門あげて経巻33巻を厳島神社に納めたという説がいまだに有力視されています。経巻33巻のうち平氏が署名したのはわずか6巻。残りは無署名という事実があるのだから、小林市太郎の説を否定するのであれば、反証をあげて反論すべきです。
実はこうこうの理由で平家一門は署名しなかったのだという古文書(日記ほか)が発見されてもいないのに小林市太郎説に異を唱えても無署名の謎は解明されません。
 
さて、鹿ヶ谷の一件以来めまぐるしく時は移り、平家一門や後白河院の身辺にもさまざまな変化がおこる。人使いの天才清盛でさえ病魔に打ち克つのは難しい。発端と過程はどうあれ、平家納経を後世に残せてよかったのです。
 
        
        平家納経「序品」(じょほん)。序品の見返し絵は大和絵。
          平家納経の見返し絵は大和絵と唐絵からなり、願文(筆のみ)は別として、平家納経は華麗な見返し絵が特長。
          
          下の図は序品。僧侶、貴族の女房ほかが修行したり、道にいそしむ姿をあらわすとされる。
          左の経文の筆色は、妙法蓮華経序品などの字は群青、二行目途中は金泥、そして緑青の三色を使い分ける。
          経文の色を次々かえて華やかに彩ったのは女性の好みと小林太市郎は指摘しています。


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