2020年2月4日    西行の時代 後白河法皇幽閉
 
 治承3年は清盛にとって忌まわしい年でした。治承2年(1178)、高倉天皇と徳子のあいだに待ちに待った男児が生まれ(後の安徳天皇)、厳島神社の霊験を吹聴せんばかりに喜び、生後1ヶ月余り急いで立太子したものの、その後見人に清盛が藤原経宗(1119ー1189)を抜擢したことに対して九条兼実は「面縛(捕らわれ者)の人、傳に任ず、未曾有のこと」(「玉葉」)と記しています。
 
 経宗は平治の乱(1160)のおり信頼や成親に与し、信西追放に成功したあと清盛に寝返り、二条天皇を六波羅に脱出させ、まんまと信頼を逆賊に仕立て上げる。そこまでは計画どおりでしたが、後白河帝に忌み嫌われ阿波に流される。
 
 ところが2年後の応保2年(1162)に都に帰り、長寛2年(1164)秋、経宗は正二位右大臣に昇進し、時の太政大臣藤原伊通(これみち 1093−1165)は、「黍(吉備真備)の大臣が出て、阿波の大臣があらわれたのだから、次は稗(ひえ)の大臣もあらわれるだろう」と言い、公卿を笑わせたといいます。
 
 それはともかく治承2年、新皇太子に仕える面々に宗盛や重衡、維盛(重盛の長男)などが就き、しかし後白河法皇の近臣はおらず、平家一門が要職を占めました。折も折、翌治承3年の6月、清盛の娘・盛子が満23歳で亡くなります。
 
 盛子は摂関家の領地を管理する立場にあったので、盛子の死後は清盛任せかと思われた矢先、後白河法皇が近臣に命じて摂関家領の支配権奪取の動きをみせる。
そして同年7月(西暦1179年9月2日)重盛が41歳で逝去後、法皇は彼の死を嘆くどころか、知行国・越前を重盛の長男維盛から没収。「愚管抄」によると清盛を恨んでいた関白基房が法皇にはたらきかけたとされます。
 
 穏やかな性格の重盛は生前、法皇と父のあいだに立って心をくだき融和をはかっていたとみられることから、その死は両者の関係を悪化させる主因となりますが、「愚管抄」は病が重くなって行く重盛について、「トク死ナバヤ」(早く死にたい)と洩らしたと記しています。事実なら、重盛ほどの者でも重圧と重病から解放されたかったのでしょう。重盛の存在は法皇・清盛にとって欠くべからざるものでした。
 
 法皇の行動を清盛への挑発とみるか、腹いせとみるか、なんらかの政治的目論見とみるかは別として、福原にいた清盛は数千の兵を率いて上洛します(治承3年11月)。このときも清盛は電光石火でした。上洛の翌日、基房を罷免、基房の子・師家を解官。太政大臣・師長を解官し、洛外へ追放するなどなど39人を処分。
平氏一門に対しても容赦せず、「異母弟の頼盛、義弟(時子の弟)親宗ほかを解官した」(美川圭「院政」)といいます。法皇支持勢力はほぼ一掃される(11月18日)。
 
 元木泰雄は「平清盛の闘い」に、「1972年の大河ドラマ新平家物語では、後白河を演じた滝沢修が仲代達矢演ずる平清盛に対抗する、まことに堂々たる帝王ぶりに、いたく感銘を受けたことが思い出される。もっとも、30年近くを経て後白河に関する研究が深化した今になってみると、どうも本物よりも風格がありすぎたようにも思われる」と述べています。
 
 法皇はそれほど風格もなく、深謀遠慮もなかったとの意。たかがドラマと思うなかれ。なかには秀逸なドラマもあるし、劇中人物によって謎がとけたり、あるいはドラマの断片が記憶に残っていれば、元木泰雄氏のように時がたってはたと気づくこともあります。みている人はみているのです。
 
 法皇は清盛上洛の報を聞いて使者(清盛と親しかった僧=信西の子)を派遣、関係修復をはかるのですが清盛は拒否。法皇を鳥羽殿に移し(11月20日午前)、「おつきの人は一人も許さず、わずかに琅慶(ろうけい)という僧一人が側に仕えるという状態にした。後になって法皇の寵愛する丹後局だけは身辺にはべることを許された」(愚管抄)。法皇幽閉です。
 
 平家物語では、「御車に召されけり。公卿・殿上人一人も供奉せられず、ただ北面の下臈、さては金行(かねゆき)といふ御力者ばかりぞ参りける。尼ぜ一人参られたり。この尼ぜと申すは、法皇の乳母、紀伊二位の事也」とあります。紀伊二位とは信西の妻・従二位朝子。紀伊守藤原兼永の娘であったのでそのように呼ばれていました。
 
 鳥羽殿は清盛の配下によって防護され、一部の貴族と女房以外の出入りは禁ぜられます。後白河院政は事実上停止されたたのです。11月20日午後、清盛は福原へ帰る。都の政務は高倉天皇と新関白・基通(基実の子)に、都の警護は宗盛にゆだねて。世にいう治承3年政変。
その5日後、法皇の第二皇子以仁王の所領は没収され、天台座主明雲に与えられます。以仁王は八条院の支援をうけていました。八条院はかつて記したように鳥羽院が寵愛した美福門院得子の娘。得子から莫大な財産を相続している。
 
 以仁王の異母弟で、後に即位した高倉天皇の母・平滋子(建春門院)や清盛に対して以仁王は憎悪の念をいだいていたでしょうし、今回の没収で憤慨したことは疑いようもありません。火だねはくすぶりながら燃えるときを待ち、小さな火は消えても尽きない火だねとなって残ることを誰が気づいていたでしょう。

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