2020年2月22日    西行の時代 清盛晩年(1)
 
 厳島神社への篤い信仰と厳島内侍(巫女)の寵愛が清盛の平家納経となって結実することはすでに述べたとおりです。神社へ納経というのは神仏混淆のあらわれといえるのでしょう。仏教は釈迦に対する功徳を布施というかたちでおこないます。ヒンドゥー教は現世、仏教は来世へ布施をおこなう。
来世への布施は見返りがなく、見返りなしに功徳をつむことによって至上の安楽をもたらすというのが仏教の考えです。神の天国は仏の浄土。
 
 浄土へ行くための布施は、釈迦にではなく仏塔である寺院や僧侶に対してなされます。仏塔の中に納められている仏舎利(釈迦)が布施を受け取るのです。天皇(法皇)と有力貴族が寺を建立する目的は、建立が布施であり、布施が功徳を生むと信じていたからです。
 
 寺院の多くはそうして建立されてきたのでしょう。清盛が厳島神社の鳥居などを瀬戸内海上に建てたのは、日宋貿易を重視していたので、宋人が船でわたってくるとき、絢爛荘厳な厳島神社を一望できるからではないか。陸の壮大な伽藍を見慣れた宋人に海上の壮麗な建築をみてもらい、驚かせたかったからではないでしょうか。
 
 高倉天皇が安徳天皇に譲位し上皇となって(治承4年3月 1180)初の神社参詣に清盛は厳島神社を選ぶ。
それまでの上皇が参詣してきたのは「石清水八幡、春日、賀茂、日吉という京都周辺の神社であり、これは先例を破るものであった」(美川圭「院政」)。それらの神社と密接なつながりのある権門(延暦寺、園城寺、興福寺)がだまっているはずもなく、清盛と延暦寺との融和も、元々険悪だった園城寺・興福寺との関係もこわれる。
 
 権門からみれば清盛と平家一門は成り上がりにすぎず、天皇家や摂関家と古くから関わり、宗教的権威をひけらかし、都の秩序をになってきたと自負する権門寺院にとって清盛の行動は許しがたい。そういう尊大かつ傲慢な考えは現在も各省庁の官僚に受け継がれています。選挙で選ばれた政治家は一時の職、われらは定年まで、いや、定年後も権威を示すと。
 
 天皇家の内親王が門跡となったり、摂関家の長や有力貴族が邸内や別宅で手当たりしだいに仕女を犯し、産まれた子は僧籍にいれる世に、出自を知った僧が、世が世なら清盛やその子が異例の出世を遂げるなどもってのほかと思っても不自然ではありません。優秀であればなおさら不満が鬱積するというものです。
 
 治承4年4月、延暦寺内部に反平家の動きがあるとみなした以仁王(後白河法皇の子)が平家追討の令旨を発布し、全国に向けて挙兵をうながす。しかし、権門寺社相互の連携がととのっているかどうかの状況と、源氏勢力の結集とを見極めないまま令宣を出したのは以仁王の性急さであり、誤算です。
 
 治承4年5月、挙兵計画が露見、以仁王は園城寺に逃れます、しかし園城寺内の反平家・親平氏の内紛や、事を構えるのは得策でないと判断した延暦寺の方針を知って園城寺を脱出、興福寺をめざす。
「平家物語」巻第4のほとんどは上記を含む以仁王のことを語り、園城寺から六波羅に夜襲をかけるとも語っています(「いざや六波羅におしよせて、夜打にせん」)。
 
 以仁王は源頼政麾下の兵に警護され興福寺へ向かう途上、宇治で平家軍に追いつかれ、76歳の頼政(源三位頼政 1104ー1180)はいったん宇治川の橋桁を破壊し平氏の行軍を阻もうとしましたが、宇治川をわたった平家軍は平等院にいる頼政と一戦交える。頼政は敗れ、一族の主な武将とともに自害、以仁王に味方した悪僧らも壮絶な最期をとげ、奈良寸前まで来た以仁王も戦死。
 
 「愚管抄」巻第五は、「以仁王は生きているという噂がながれたが、そのうち噂も消えた、平家は園城寺に兵をさしむけ、堂舎以外の僧坊の多くを焼きはらわせた」と記しています。
 
 以仁王の2歳上の同母姉は、「玉のをよ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」(百人一首)を歌った式子内親王。しょくしともしきしとも読ませますが、のりこです。定家と密接な関係があったという説もあります。
 
 定家は式子より13歳年下。あの道に年齢差は関係ないといわれているのは小生も承知しています。
定家が式子邸へ何度か伺候したのは確かでしょう、しかし、式子が醜男で気性のはげしい定家と心通わせたという話は後世の学者らの閑日冗語(ひまなひのむだばなし)、もしくは幻想としか思えない。式子の歌に詠まれた相手は定家ではない。法然かどうか式子に詰問するほかありません。
 
 以仁王の反乱は鎮圧されましたが、火は徐々に広がってゆきます。後白河法皇が幽閉された前年11月、平家は対立していた貴族を政権中枢から一掃、全国66ヶ国の約半数の知行権を掌握し、摂関家ほかの荘園を整理(取りあげるという意味もあり)。平家の断行は有力貴族の不満を呼び、中央政界からの孤立を生む。
 
 治承4年(1180)6月初旬、清盛は福原へ都を移すべく安徳天皇(1178−1185)の行幸を仰ぎます。清盛が先頭に立ち、安徳天皇、高倉上皇、幽閉されていた後白河法皇までも列に加わる。これはもう加わったというより連行されたというほうが正確です。
前掲「院政」によると、「福原の宿所は十分な準備ができておらず、頼盛の邸宅が内裏にあてられ、清盛の山荘が高倉上皇の御所、教盛邸が法皇の御所とされた(中略)。遷都先はほかに案があったが、結局福原に落ち着いた」そうであります。
 
 福原遷都とその2年間の都を詳細に記した記録があります。「方丈記」です。鴨長明(1155−1216)は下鴨神社の禰宜・鴨長継の子で、父の死去後、禰宜の座闘争に敗れ、そのころ突然の遷都やら、その後の大飢饉、疫病の流行やらで都は騒然とする。
「方丈記」は1212年に完成したとされており、約30年前に遡って書き記している。過去を顧みながら濃厚な追体験をしたでしょうし、あらためて体験の重さ、すさまじさを知ったと思われます。鴨長明は貴族や武士とちがって庶民の視点で事象をみていたと考えていいでしょう。
 
 「治承4年水無月のころ、にはかに都遷(うつ)り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。(中略) 古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。(中略) いま移れる人は、土木のわづらひある事を嘆く。人の心もおさまらず、同じ年の冬、なほ京に帰りたまひにき」。
肝心なのは方丈記のような具体的内容の記述です。福原まで行き、現地を見てきたという長明氏が何を思ったのか。経験が私たちに奥行きと立体をあたえ、深みのある人間像を生む。そういうとき過去もあざやかに再生されるのです。
 
 都は荒れて、福原はまだ定まっていない。遷都は170日で挫折、治承4年の冬場にさしかかる11月下旬、彼らは福原から都へ帰っていきます。元号が治承から養和、そして寿永と改元された1181年から1182年にかけての4月〜5月の2ヶ月、飢饉と疫病が襲いかかり、都で4万2千人以上の死者が出たことの詳細は次回。
 
 清盛や平家一門の想像した浄土と市井の民の浄土は異なり、世の無常を経験で知ったのは清盛も長明氏も同じかもしれません。が、長明氏は都の惨状に接触して浄土を信じたでしょうか。
 

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