2020年3月1日    西行の時代 清盛晩年(2)
 
 清盛は170日間遷都した福原をあきらめ都にもどったのですが、興福寺との対決は後回しにして「方丈記」の続きを。
 
 養和(新暦1181.8.25−1182.6.29)年間の飢饉は1181年4〜5月にピークとなり、
「京のならひ、何事につけても、みな、もとは田舎をこそ頼めるに、絶へて上がる物なければ」(「方丈記」)となります。地方各所から作物が来なくなると、都人の生活は困窮する。「養和のころとか、二年のあひだ飢渇して、あさましき事侍りき。五穀ことごとくならず」。
 
 長明氏の文章は生々しく表現力ゆたか。
「前の年、かくのごとく暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思うほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、あとかたなし。(中略) かくわびしれたるものども、歩くかと見ればすなはち倒れ伏しぬ。(中略) 古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割りくだけるなりけり」。
 
 さらには、仁和寺の驪ナ(りゅうぎょう)という僧が、洛内の屍の一体々々の額に梵語の「阿」(梵語の文字 胎蔵界・大日如来を表すとされる)を書いて弔ったといいます。そのさい驪ナは屍の数を2ヶ月かけて、きょうは何人と数えていったらしい。その数、左京だけでも4万2千余り。ほかの区域を加えれば‥‥僧の行い壮絶というほかありません。
 
 「仁和寺に驪ナといふ人、かく(このように)しつつ数も不知(しらず)死ぬる事を悲しみて、その首みゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。その前後、また河原・白河・西の京、もろもろの辺地など加へていはば、際限もあるべからず。いはむや七道諸国をや」。
 
 平安末期〜鎌倉初期、貴族や高家高官が残した日記・史料にかくも具体的で伝達力にみちたものは見当たりません。その類は何年何月おびただしき死体あり、とかですませる。餓死・病死が実数であれば、都の庶民はもちろん、貴族邸の雑仕女にいたるまで甚大な被害がでたことになります。
 
 長明氏の記述・文言がすごいのは、当時の人間とはちがう途轍もない使命感につきうごかされ文章作成に取り組んだこと。方丈記は史上初の漢字・かな混淆文で記され、随筆として傑出しているというだけでなく、ジャーナリストが模範にすべき伝達力ある報道といえます。
 
 新型コロナウイルスが蔓延する昨今、どのデータを引っぱりだしてきたのか、国内のインフルエンザによる死亡が毎年1万人におよぶと発言するジャーナリスト、政治家、医師はいかなる人々なのか。新型コロナ肺炎死亡者はまだ少数ゆえ気にするな、騒ぐなということでしょうか。厚労大臣加藤某のコメントは、感染症が火星で発生しているかのようで意味不明。
 
 疾患のある高齢者に死者が多いとも発言していますが、中国政府の発表をそのまま流しているだけで、得体の知れないウィルスをわかったかのごとく言うのも不可思議。次々疫病にかかる人たちをほとんど記していなかった平安末期貴族と、今世紀の官僚、政治家の大雑把な「ものいい」は尊大さにおいて、熱意の欠如において同等。
 
 清盛が死んだのは治承5年閏2月4日(1181.3.20)。その2ヶ月前の治承4年12月25日(1181.1.13)、清盛は興福寺に重衡を総大将とした数千騎の兵をさしむけます。
その直接の理由となったのは、頼朝に与する「関東方の近江進攻に呼応して興福寺悪僧が上洛準備をしているという報が入った」(括弧内は高橋昌明「平家の群像」)からといいます。以前から興福寺は平家と敵対関係にありました。
 
 治承4年5月27日、高倉上皇御所に参集した「有識」公卿12名の議定」(国政の重大事を議論する会議)において、「以仁王は興福寺に逃げこんだようである。引き渡し要求し拒否されたら兵をさしむけるべき」と言う参議藤原実宗のあとをつぎ、大納言藤原隆季(中宮徳子の中宮大夫)は、「かの寺は強い武力を有しており、日ごとに兵力を増しているゆえ一刻も早く撃つべきである」(元木泰雄「平清盛の闘い」)などと物騒なことを。
 
 平家一門に有識はおらず、隆季が平家の代弁者です。これに反論したのは清盛嫌いの右大臣九条兼実。「興福寺におられるかどうか定かではない、確かめてからの話である」と発言。この会議のさなか以仁王が討たれたとの報せがあり、隆季の強硬論はしりぞけられました。公卿会議の典拠は兼実の「玉葉」によります。
 
 12月28日、現在の木津市で合戦し木津川をわたり、奈良坂、般若寺坂をこえて南都へ攻めこむ。この総攻撃で興福寺も、聖武天皇以来の東大寺大仏殿などの堂舎も炎上。当時の興福寺・東大寺境内は広大。炎の燃え広がるようすは、毎年1月におこなわれる若草山の山焼きを想起させます。焼失を免れ現存するのは周知のごとく転害門と法華堂のみ。
 
 治承は5年で終わり養和と改元され、養和元年(1181)夏あたりから平家の戦況は悪化します。湖北や播磨にも源氏に呼応する勢力があらわれる。加えて干ばつ、飢饉が畿内をおびやかし、疫病も流行。
都を襲った飢饉回復のための平家の負担は増大。荘園からの米など農作物は滞り、納品されないケースも出る。「都の富裕住宅を調べて米を徴収したともいわれており」(「平清盛の闘い」)、敵が都に向かっていては、人員も予算もうなぎのぼりで踏んだり蹴ったり。
 
 「平家の群像」によると、「昔から飢饉は3年続くといわれる。天候不順はたいてい2年続き、2年目は前年より厳しく、そのため餓死者が出て生産体制が崩れ、3年目は天候が回復しても生産がもとに戻らない」といった状況なのです。
 
 戦術と統率力、人心掌握力に長けた清盛存命中は盤石にみえても、清盛死後、宗盛では棟梁にならないとみなされたのか、源氏に味方する者が増えていく。それでも墨俣川合戦(治承5年4月25日)では、重衡軍が源行家軍をこてんぱんに打ち負かしています。
「平清盛の闘い」には、都の富裕層の蔵米調査の同日、「伊勢の大神官ほか権門の荘園、各所の津(港)に対して船と水夫を墨俣近辺へ送るよう命じ、おおぜいの平家兵が投入された」あり、それが勝因と思われます。
             
 「吾妻鏡」や「養和元年記」(興福寺僧侶の記録と推定)には死の1週間ほど前、清盛に頭痛と発熱がみられ、病状は急速に悪化。兼実はじめ貴族のほとんどは重大事態とうけとめていなかったらしく、清盛の急死に愕然とし、「玉葉」は死についてひとことの記述もしていません。
しかし翌日の「玉葉」に、「本来敵に討ち取られる運命なのだが、病で死ぬのは人意のはかるところにあらず」、「神罰の条、新たに以て知るべし」などと記しています。翌日となっていますが、ほんとうに翌日書いたのでしょうか。
 
 都は平氏一門がおさえているし、都落ちして、木曽義仲が洛内になだれこむのはまだ先です。平家滅亡の兆しがないときに「本来敵に討ち取られる運命」と記すのは、いかにも後日のつじつまあわせというか、話ができすぎています。
 
 「養和元年記」の書き手が興福寺僧侶であれば、清盛を「仏罰によって死んだ」と記すことは疑いなく、清盛を悪とみなしていた「平家物語」も罵っています。「平家物語の原型は養和元年記」とする説もあり、新史料発見でもないかぎり史家の想像力が試されるところです。原型はどうでもよろしい、発展型が秀逸であれば。
 
 一ノ谷の合戦(1184)で敗れた重衡はいったん都へ護送され、その後鎌倉に連行されました。ところが興福寺・東大寺の衆徒が南都引き渡しを要求し、頼朝は許可する。翌年、重衡は南都送還途上、木津川河岸で斬られました。執行役は武士。南都の衆徒が仕向けて処刑したのです。
 
 史料を読むと重衡は明るい性格で、周囲から好感をもたれていたそうです。兼実の弟・慈円でさえ「愚管抄」巻第五に、重衡の妻輔子(すけこ)との別れを好意的に記しています。都から南都へ護送される途中、妻のいる所を通りがかり、警護責任者・源頼兼(源三位頼政の息子)は夫婦の対面と、妻が持参した小袖に重衡が着替えることを許しました。
 
 都落ちから壇ノ浦まで、物語的には平家物語はすばらしい。実話と説話が入り混じり、物語性をいえば、平家物語に勝る物語はなく、古事記以来のドラマ主体古典となって能、文楽、歌舞伎に大きな影響を与えました。
 
 清盛を悪し様に言った平家物語の担い手は、江戸時代以降こんにちまでの伝統芸能を予想したでしょうか。
聞こえもしないのに聞こえる鐘の音。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は小学生でもおぼえる名文句。そして知盛、重衡などを見事に表現したことから、もしかしたら物語の優れた伝達力を自認し、後世さまざまな形を生み、永く伝えられることを予想したのかもしれません。
 
 きょう(2020年3月1日)だったか、「どういう人がおとなだと思われますか?」との問いに谷川俊太郎は、「自分の幼児性を直視できる人がおとなだと思います」と答えています。
ばかばかしいようにみえることでも、人間に潜む子どもじみた部分を見落とさず、非難せず、かばったり支えたり、ときには利用することで人間関係は円滑になるのかもしれない。そして栄華は長続きしない、感動が長続きしないように。
 
 平清盛の政治手法、人心掌握術は藤原道長など天皇家と懇ろになって政治の実権をにぎった人々とそんなにちがわない。白河院・鳥羽院は院政を支える貴族との摩擦を避け、しかし彼らのいいなりにはならず、平家一門にもつけいる隙をあたえませんでした。
 
 清盛の祖父も父も「院に受領地を寄贈し、引き替えに官位を授かる」成功( じょうごう)をおこない、白河院は造寺造仏に励み、鳥羽院は離宮建設にいそしんだ。王権の権威を保つことができた理由は以前記したのでくりかえしません。
白河・鳥羽両院は潤沢な財産を背景に君臨した。鳥羽院は遺産のほとんどを美福門院得子(なりこ)に相続させ、得子は娘・八条院に相続させました。鳥羽院の子・後白河にのこされたのはなけなしの資産です。「仏と仏の評定」で述べたように得子には逆らえない。
 
 蓮華王院(三十三間堂はその本堂)は後白河法皇創建となっていますが、建設資金は清盛が出しました。財力では清盛が後白河院より圧倒的優位に立っていた。しかし後白河という札付きの法皇に手を焼いたことは確かです。
 
 木曽義仲も源義経も振りまわされた。後白河法皇は平安末期のお騒がせ男。複雑な精神の持ち主であり、行状から推測して情緒不安定の気があったのは否定できない。たしかに打たれ強い性格だった後白河法皇は、倒れるようで倒れず、幽閉され沈没しても浮上する潜水艦。
財産もすくなく、ほかの天皇法皇ほど鷹揚にかまえられず、やっさもっさ動いて周囲に迷惑をかけたり、御意に計らえと一任して騒動の元をつくったり、人間・後白河の本領発揮。長持ちの秘訣はそれかと思ったりもします。頼朝相手にまともな対応をしたのは不思議。
 
 頼朝が見本としたのは清盛です。忠盛の後妻・池禅尼の申し出を聞き入れ、頼朝ほか義朝の子息の命を助けたのが平家の命取りになった。長い歴史からみれば、清盛も後白河法皇も波のまにまに浮かんだ泡かもしれない。晩秋の月のごとくきらめく日もありました。が、すべては藻屑となって消えてゆく。頼朝より清盛を多く語るのは当然です。
 

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