2020年8月9日    女優 京マチ子

 
 京マチ子は女優のなかの女優だった。あるときは女豹のごとく鋭く、あるときは姐さん女房のごとく堂々と、またあるときは女御のごとくたおやかで、そのまたあるときは南欧女のようにかぐわしく、芝居は手をぬかず、誇張もなく、自然だった。
 
 京マチ子が大映京都で活躍した1950〜1960年ごろ、現代劇はみなかったし、子どもにとって時代劇といえば東映だった。大河ドラマ「元禄繚乱」(1999)で桂昌院をやっていた京マチ子。綱吉に対する甘えるようなそぶり、艶然たる雰囲気がにじみ出る貫禄といったらなかった。
天下を動かすのは貫禄と度胸、色気なのかと思ってしまう。将軍の母はかくありなむ。衣裳は豪華絢爛であっても、半裸の女を見るような気分にさせられた。京マチ子がその気になれば、十二単衣に隠された女体さえ想像してしまうだろう。性的魅力があるのだ。
 
 その後テレビで放送された映画「雨月物語」(1953 監督溝口健二)、「浮草」(1959 監督小津安二郎)をみた。「雨月物語」については「いざ時代劇」2020年8月1日の「雨月物語」に書き記したのでくりかえさない。監督や大道具、カメラマンの手腕によるところ大であるとして、京マチ子の芸と工夫が見事に発揮された名作。
 
 雨月物語をみれば、当時28か29歳の女優の完成度、ほかの女優にはない京マチ子だけの独特のうるおい、動感、角々の決まりとキレ、間のよさがわかる。
 
 「美と破壊の女優 京マチ子」(筑摩書房)は書名が芳しくなく、著者が若いこともあって内容はすぐれていると言いがたいけれど、丹念に追った労作であり、京マチ子についての類書がすくないので参考になる。
大阪市内で生まれ、大阪松竹歌劇団(OSK)に入団したのは13歳。戦前、初舞台を踏んだ彼女は、他の少女が帰り道にあんみつを食べにいっても仲間に加わらず、13円の月給をそのまま母に差し出したという。
 
 1950年代に出演した数々の映画(時代劇以外)をみて、彼女はアプレ(アプレゲール=仏 戦後派の意)の肉体派女優とする三流評者もおり、要は第一次大戦後にヨーロッパで流行したアプレゲールの焼き直しを好む批評家が多かったということである。なかにはヴァンプ(妖婦)と言いだす者さえいた。肉体派ということなら京マチ子より濡れ場が多く、それ目当ての観客を集めた若尾文子のほうが肉体派と呼ぶに適している。
 
 そういう点で前掲書曰く、(現場では)「ただワンカットへの情熱で彼女の心はいっぱいである」(演出家木村恵吾)。「台本を得たらホテルに閉じこもり役の研究に没頭しているという。(中略)すべてを仕事に向けている」(花登筐)。
 
 京マチ子は、「古風で義理堅く、謙虚な人間として知られている」(前掲書)。関係者によると、「大映の経営が傾き、次第に大物スターがパーティに顔をみせなくなってきた。しかし彼女だけは、大映が倒産する最後のパーティまで出てきていた」(「独占・人間秘話 京マチ子48歳」)。
 
 羅生門や雨月物語の時代劇、「浮草」や「ぼんち」といった古き昭和を描いた現代劇の京マチ子の芝居にほとほと感心していたわたしは、OSK時代をほうふつさせる映画「踊子」(1957)のDVDを買った。京マチ子が32歳のとき撮影され、共演の淡島千景も32歳。
松竹歌劇団OGと宝怏フ劇団OGの踊りをみれるという期待感があり、ふたりの踊るシーンは超短かったけれど、さわやかでかわいく、期待を裏切らなかった。濃厚でなかったから好印象を残したのだ。歌劇団時代の猛練習が体に染みついた演技派だからこそかわいさ、すがすがしさを表現できたのである。
 
 京マチ子の女優としての芝居は「浮草」と「ぼんち」(1960)で頂点に達し、それをそのまま保ちつづけた。
「浮草」はドサ回りの旅芸人。座長役を二代目中村鴈治郎がやっている。1950年代は映画に押されて上方歌舞伎が異様なまでに低迷し、市川雷蔵の養父市川壽海と人気を二分していた鴈治郎は映画に進出、それがさいわいした。京マチ子との関西弁の言い争いは傑作というほかない。
 
 はげしく口論しても観客がうんざりしないのは、鴈治郎と京マチ子の芸格。双方迫力満点の攻撃をしあっても下品に落ちず、役者としての格を維持。役者の格が芸を決め、芸が格を決めるのだ。夕立のさなか、小路を隔て雨宿りしながらの撮影(宮川一夫)も功を奏している。たてかけた蛇の目傘の赤も効いている。
 
 京マチ子も鴈治郎も関西で生まれ育った。上方の歌舞伎役者は世話物では東京の成駒屋とちがって型にこだわらない。そのときどきで自在に芝居する。跡継ぎに教えることもない。芝居というより生活実態である。それほどリアル。芝居をしているようにはみえない。
 
 うまい役者と丁々発止のやりとりをしてどれほどうまくなるか。何をやっても気取った感じで、一本調子だった若尾文子は「浮草」で女優の面目躍如。二代目中村鴈治郎、京マチ子という不世出の役者のそばで彼らを見る機会にめぐまれたからだ。
 
 「ぼんち」で市川雷蔵の妾のひとりをやった京マチ子。ほかの妾は雷蔵より年下で彼女のみ年上。映画の舞台は昭和初期の大阪船場。昭和20年代終わりから30年代初め、近所ににそういう女性がいた。瀟洒な家の軒先に「常磐津おしへます」と墨書きの木札がかかっており、引き窓からなんともいえない音色の三味線と、うっとりする江戸時代の声がきこえてきた。
 
 「ぼんち」の料理茶屋の仲居頭役京マチ子はしっとりして風格もあり、色気をうまく隠し、年上の妾の風情がただよっていた。雷蔵、毛利菊枝、山田五十鈴の芝居もよかったし、北林谷栄はその時代の人間がそこでものを言っている感じ。奥向きの実権を握る先代の後家(毛利菊枝)相手に一歩も引かず啖呵を切るシーンの貫禄にしびれた。「浮草」と「ぼんち」は往年の邦画ファン必見である。
 
 昔の俳優は味があった。喜劇俳優を例にあげると三木のり平、渥美清。いまのコメディアンに彼らほどの味を出せる者がいるだろうか。昭和は遠くなった。
 
 大映京都の後輩山本富士子は、「ほんとうにまじめな方でした。艶やかな外見とは裏腹に地味な方。女優としてすごく偉大ですばらしかったという尊敬の思いと、家庭的で庶民的で身近に感じる京さん」と語っている(「キネマ旬報2019年7月下旬号「追悼・京マチ子」)。
 
 長年にわたって黒澤明映画の記録編集助手をつとめ、京マチ子と交流のあった野上照代(1927−)は記している。「ことし(2019)の5月はじめごろ、電話で元気?ときくと、もうあかん、もうあかんわと言ったのがさいごになった。まだ、あの声が耳に残っている」(前掲書 追悼・京マチ子)。
 
 2019年5月14日、8日間の予定で入院した日の夕方、テレビニュースで京マチ子の死を知った。5月12日、都内の病院で亡くなったという。昭和期以降、あれほどの大物女優、魅力的で風格のある女優はいない。

前の頁 目次 次の頁