2019年1月3日    西行の時代 序章(2)
 
 祇園花見小路の元置屋に下宿していた昭和43年睦月如月のころ、みぞれが溶ける夜、濡れた石畳を歩く舞妓・芸妓に「もののあわれ」を感じたのではないし、彼女らの姿に色艶を見たのでもなく、茶屋のほの暗い灯りがもれてきても、石畳が濡れていなかったら感慨もなかったでしょう。ただ濡れていることに幽艶を感じたのです。女がどういうものか知らず、想像力が先走る弱冠18歳の男子には。
 
 西行や西行桜の名は知っていても、西行について知っていることといえば、高校1年の夏休み、「古典」の宿題に「百人一首」全歌を暗記せよ、休み明けの実力テスト(英国数3教科)に出題するとのお達しがあって丸暗記した百首のなかの「嘆けとて 月やはものを 思はせる かこちがほなる わが涙かな」くらいのものでした。
 
 15歳(昭和39年夏)の高校生には、西行の歌より待賢門院堀河の「ながからむ 心も知らず黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ」や、「もろともに あはれと思え 山桜 花よりほかに 知るひとぞなき」、「天つ風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」、「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」、「寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば いずくも同じ 秋の夕暮れ」、 「み吉野の 山の秋風 さよ更けて ふるさと寒く 衣打つなり」などの歌に魅了されました。
 
 叙情、叙景表現のすばらしさは15歳でも十分わかります。黒髪の乱れ、山桜と寂寥、乙女、とどまる名、秋の夕暮れ、吉野の風。昭和30年代半ばまでの古き良き時代、なつかしい風景と人々。昭和は35年半ばを境に高度成長時代に突入します。池田勇人内閣の所得倍増計画が昭和後半を牽引するのです。
実家から徒歩15分の畑や田んぼがなくなり、建て売りの小さな家やガソリンスタンドになりました。変化をうけいれることは中学生には難しく、通学時のあぜ道はなく近道できず、とんびが獲物を狙って舞う空もなく、落胆と追懐だけが残りました。明日香村の甘樫丘から飛鳥寺へいたる田園風景は、遊び仲間と興じた子どものころ漠然と感じた別れの予感を思いおこさせたのです。
 
 待賢門院・堀河なる女性が、鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子に仕えた歌人であることも知らず、西行と浅からぬ縁があることを知ったのはずっと後でした。堀河の生没年は不明です。伝わるところによると西行より年長で、歌を通して交流し、ふたりのあいだで何度も歌の送返がありました。
 
  「西へ行く しるべとたのむ 月影の そらだのめこそ かひなかりけれ」 堀河
 
 に対して、「さし入らで 雲路をよぎし 月影は 待たぬ心ぞ 空に見えける」と西行は詠んでいます。
 
 西行の訪問を望んだ堀河でしたが、西行は来ません。来ないばかりか、その後も訪れる気配さえなく、堀河宅の門前を通りすぎるだけ。文句のひとつも言いたくなった堀河への西行の返歌は、「お宅へ寄らず、雲をよぎった月ですが、そちらが私を待つ気もないのが空から見えたのです」。
年上の女性へ年若の男性がこたえることばとして見事な歌です。堀河の本気度を試しつつ、どこかに揶揄する気持ちもあると思われます。堀河が本気でなかったとすればギャフンといわされたことでしょう。
 
 西行と堀河は待賢門院璋子とも関わります。堀河が関わるのは当然として、待賢門院の住まいとした法金剛院へ崇徳天皇が行幸したときの堀河の歌や、待賢門院璋子崩御1年間、仕えた女性たちが喪に服しているおり西行が堀河に送った歌や、その返歌も残っています。本編で登場するでしょう。
 
 1986年2月、新潮社から刊行された「定家明月記私抄」(堀田善衛)の名文は短くても多くを語っています。
「時を経て私自身のなかで、西行という人物が次第に巨大な何物か、日本の思想史のなかにあって、それこそ隠然として重味をもって存在している、いわば端倪すべからざる人物として見えて来ている」。
 
 さらに堀田善衛は、「宗教家としては、私は西行を非僧非俗を旨とする、親鸞の先駆をした人と考えているが、それは別の事に属しよう。かかる異様な人物が、彼の側からして若き定家に接触を求めて来てくれたのである。それは歌の家に生まれた者の仕合わせの一つであった」と記しています。西行60代後半、定家20代半ばでした。
 
 堀田善衛が西行と定家をどう比較したかは次の一文で明らかです。「父俊成(藤原俊成)や、周辺の競い合わねばならぬ立場にある歌人たちなどとは比較にならぬ強烈なもの」。西行に魅了された者としては胸がすかっとする一文ではありませんか。
会ってもいない人を会ったかのごとく思わせる文章力に感服。桜みる人も、桜みる人をみる人もをかし。清少納言がいうかどうか別として。
 

前の頁 目次 次の頁