2020年9月9日    京都の花街(かがい)で
 
 淡島千景の会話(水野晴郎との座談「銀幕の花々」)を抜粋する。
「自分(長谷川一夫)が女をおできになるだけに、他人のしていることがまどろっこしいんでしょうね。『こないしたらもっと手早くいくやろ』とか。女をできない人だったら気づかないようなことを気づくわけですから。それで言われたとおりにやると、やっぱりいいんですね」。
 
 長谷川一夫は歌舞伎の女形出身で後に映画に転じた。最初の配偶者は彼の師匠・初代中村鴈治郎の娘(六女)たみである。映画「雪之丞変化」の流し目と上目づかい(眼千両といわれた)で女性ファンをとりこにし一時代を築く。
大河ドラマ「赤穂浪士」(1964)の大石内蔵助のせりふ「おのおの方」は長谷川が使って有名にした。役のハラと口跡のよさだけではなく、鼻にかかった独特の声、せりふ回しでお茶の間をわかせた役者は後にも先にも長谷川一夫のみ。
 
 関西の贔屓筋に知られている「七人の会」(自主公演)は二代目中村鴈治郎、十三代目片岡仁左衛門などが起ちあげたのだが、映画界に籍を置いていても長谷川一夫は、「七人半でもええから出しとくなはれ」と言ったという。歌舞伎への断ちがたい思い。
 
 「雪之丞変化」の二役それぞれの色気、凄みは子どもでもわかるくらい鮮烈。昭和映画界無二の大スターであり、多くの大物女優を指導した立役者である。私の伴侶は4、5歳のころ長谷川一夫のファンだったが、父親がサイドビジネスに経営していたミナミの料亭に出入りする芸者から、「おじいさんよ」と言われてショックを受けたそうだ。
 
 1976年5月、伴侶の姉と共に米国短期留学後、彼女らは大手バス会社の(乗り放題)周遊パスを買ってカナダを旅し、8月上旬レイクルイーズを眼下に見おろすホテルの庭に立っていた。
貧乏旅行なので行き当たりばったりに安宿に泊まり、そのホテルには見学がてら立ち寄っただけなのだが、刈込みの背後で数名の話し声がする。そのうちのひとりは間違いなく聞きおぼえのある声。
 
 伴侶は思わず「長谷川一夫だ」とつぶやく。姉の反応は「えっ!?」。奥さん、息子(林成年)、付き人らしき男性。気づいた気配を察知した付き人が来て、「プライベートですから」と言った。
 
 歌舞伎と京都の花街は密接に結びついている。南座に通った経験でいうと、最も華やかなのは、祇園など京都五花街の芸妓舞妓が南座顔見世の二日目あたりから数日に分かれて舞台下手桟敷席に陣取る(花街)総見である。
 
 歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」全十一段が初演されたのは寛延元年12月(1749年1月)、大坂嵐座。七段目は一力茶屋の場。祇園「一力亭」はすでに名を知られていた。一力亭は「万亭」の屋号であったが、歌舞伎では大石内蔵助が大星由良助、万は一と力で「一力」とされ、仮名手本忠臣蔵の爆発的ヒットがあって万亭は一力亭と改称したという。
 
 祇園のどこだったかを舞台に映画「祇園囃子」(溝口健二)が製作されたのは1953年、芸妓が木暮実千代、舞妓が若尾文子。舞妓の父で中風を患う役を進藤英太郎がやっており、真に迫っていた。木暮実千代のきりっとして、しかも情の篤い芸妓に感心。
おかあさん(茶屋や置屋の経営者)をやった浪花千栄子が芝居の領域をこえ、ホンモノのおかあさんはかくありなむというくらいうまかった。大河ドラマ「太閤記」(1965)の秀吉の母(なか→大政所)はリアルで緒形拳(秀吉)がたじたじとなっていたのを思い出す。太閤も母には逆らえず、その後、多くの女優が演じてきたが、浪花千栄子にはほど遠い。
 
 木暮実千代は大阪の娼婦街を舞台にした「赤線地帯」(1956 溝口健二)で、黒ぶちメガネ、太い眉毛、あか抜けしないヘアスタイル、野暮な着物の娼婦をやる。
粗末な中華料理店で食べるラーメンの食べ方にうらぶれた感じが見事に出ていた。細かい芝居が絶妙で、三益愛子のクサい芝居は論外として、京マチ子、若尾文子などの共演者も形なし。木暮実千代をみるためにもう一度みたい作品。
 
 1951年、松竹京都撮影所の一部が「大泉スタジオ」だったころ、木暮実千代は照明助手の大木実(当時28歳)をスカウトした。芸名は彼女の名にちなんでいる。大は大きな俳優になってもらいたいという意味合いなのだろう。
 
 祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒の総称して京都五花街という(「「京都の花街」)。母が昵懇にしていた女性は祇園甲部の舞妓から芸妓になった人で、花見小路の実家は置屋だった。娘はほかの妓と同じように実の母を「おかあさん」と言っていたのである。
 
 その女性は昭和60年春、阪急電車京都線「桂」駅から徒歩数分の一等地に中庭のある純和風木造の家を新築した。玄関を上がると坪庭があり、客間と居間から中庭をのぞめる。一人住まいだ。お祝いにかけつけたとき、「遊びに来てもいいですか?」と言うと、「いつでもええから来て」とおっしゃった。しかし当時、私は多忙をきわめ行けなかった。
 
 元号が平成になって数年後、その女性は60代後半で亡くなった。ずばっとモノを言い、ふとした瞬間、愛嬌を見せる気さくな人だった。年の離れた妹さんが住む花見小路の実家で通夜が営まれ、故人の従兄が舞妓の件にふれ、初めて知った。
 
 1968年1月下旬〜3月初旬、大学受験をひかえた私は元置屋の2階にいた。観光客は少なく、人通りの途絶えた夜の花見小路は静寂そのもの、雨の日は茶屋の灯りが濡れた石畳に映って、えもいわれぬ艶めかしさだった。
 
 黄昏時の元置屋には芸妓をへて喫茶店やスナックのママになった女性が出入りした。かぐわしい匂いを放つ湯上がりの舞妓が出勤前に寄ることもあった。自分とは無縁の世界だと思えて気にもならなかったけれど、京都の国立大学に合格していれば何らかのかたちで首をつっこんでいたかもしれない。
 
 昭和43年(1968)ごろの舞妓修業は戦前の名残があってかなり厳しかったらしい。舞妓の前段階に「仕込み」として置屋に住み込み、芸だけでなく躾を仕込まれ、先輩芸妓と交流する。
花街では密な人間関係を築くことが重要。日々の雑用、家事、買物、使い走りほかをこなさねばならず、一般家庭で安穏と暮らしている子女のように自由はきかない。
 
 祇園の歴史を書き出すと長くなるので省略。祇園が甲部、乙部に区分けされたのは1881年で、1891年、乙部は東新地に改称。祇園東といわれるようになるのは戦後である。祇園甲部に近い宮川町には、音羽屋、成駒屋など歌舞伎役者の屋号となる宿があったらしい。
 
 「京都 舞妓と芸妓の奥座敷」(相原恭子著)によると、菊池寛作「藤十郎の恋」は宮川町の芝居茶屋「宗清」の別棟が舞台になったという。上七軒は洛中最古の花街。
1444年、北野天満宮火災後の修復作業中、払い下げられた木材をつかって七軒の茶屋を建てたのが始まり。上七軒歌舞練場は北野天満宮の東隣にある。映画「藤十郎の恋」(1955)では、長谷川一夫が初代坂田藤十郎を、京マチ子が「宗清」の女将(人妻)をやった。
 
 平成、令和と時代は移り、時代劇の主演・助演のできる女優のほとんどは高齢となって、めったにオファーがこない。
左褄(ひだりづま)ということばがある。褄(つま)は帯から裾までを指し、外出時、裾を引きずらぬように左手で褄を持つ。芸妓になることを左褄をとるという。左手で褄をとると、着物と長襦袢の合わせ目が反対側になるため、合わせ目から常連の手が入りにくい。芸は売っても身体は売らないということだ。
 
 「時代劇に関して古い形はきっちり守ってほしい。風俗や歴史は正しく伝えてほしい。芸者さんは左褄と決まってますね。いまは右でも左でもかまわないのよ。これはちょっとね」と「銀幕の花々」で淡島千景が語っている。右手で褄をとるのは娼妓であり、芸妓舞妓と区別された。
 
 京都花街は、時の権力と折り合いをつけることはあっても、ご機嫌伺いすることはなく、屈するなどもってのほか、対等のおつき合いである。地位や権威を笠に着る野暮天は時代を問わず疎んじられる、もしくは反発される。
女房に首根っこを押さえられている中高年は若い女に甘く、識別眼薄弱も甚だしい。「審美眼がおとろえたかもしれない」などとほざいていたけれど、なに、審美眼を持ち合わせているかどうか疑わしく、洗練のなんたるやもわかっておらず、論じるのもアホくさい。
 
 粋で気っ風がよく、貫禄のある芸妓を演じられる女優がいなくなった。昭和は遠くなり、日々、昔日の追懐である。
 
                     
                       芸妓は左褄をとっている。 「京都の花街」(光村推古書院)より


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