2020年12月13日    トク死ナバヤ
 
 「平家物語」の文言でひときわ鮮烈なのは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」であるとして、長きにわたって心に残るのは知盛入水前に発したとされる「見るべき程の事は見つ」である。
 
 説話文学の片言は時にリアルであり、文章の行間がリアルであるのは、人生が片言と行間に存在するからだ。耽読中に気づかなかったとしても、ひと休みしたとき自らの何たるやに気づく。
高齢となって終活、断捨離を思い立つのは、加齢や疾病で行間が狭くなっていることを自覚し、必要最低限の体裁を保つ気持ちは失わないけれど、気取ったり、うわべをかざるのがアホらしくなるからだ。
 
 老いは朽ちてゆく枯れ草である。土となる前に今生の別れを惜しむまもあらばこそ、あれよあれよと冥途へ旅立つ。
 
 「平家物語」ではなく「愚管抄」の文言によると、重盛が「トク死ナバヤ」と漏らしたらしい。著者慈円の兄・九条兼実の藤原摂関家は、白河上皇院政の隆盛とは裏腹に衰退し、平家の台頭に反比例するかのごとく勢力低下していくが、兼実は有職故実に通じており、平家と天皇法皇のあいだをうまく泳ぐすべを心得ていたので重用され、昇進した。
 
 兼実同様、成り上がりの平氏を本心では快く思っていなかった慈円が、「小松内府(重盛)は心ばえのたいへん正しい人で」(大隅和雄訳「愚管抄」)と好意的に述べ、「百錬抄」(鎌倉後期 編者不詳)は、「武勇、時の輩にすぐるといへども、心操はなはだ穏やかなり」と記す。
「愚管抄」に、「清盛と後白河法皇の対立の板挟みになって、トク死ナバヤ」と漏らしていたと記しているのは、重盛が家人の誰かに「トク死ナバヤ」と漏らし、それが伝播して慈円の耳に入ったのかもしれない。
 
 後白河法皇と清盛の対立に悩んでいたのは確かなこととして、治承3年当時(重盛は満40歳か41歳)、重盛は重篤な病にかかっていた。
治承3年(1179)3月、内大臣を辞任したのは著しく体調を崩していたからだという。「最後の力を振り絞って3月に熊野に参詣したが、その途中で吐血、以後、不食の病に陥って、次第に体力を衰弱させていた」(元木泰雄「平清盛の闘い」)。
 
 「愚管抄」はそのへんの事情を記していない。清盛と後白河帝の確執を理由に「トク死ナバヤ」(早く死にたい)と重盛が漏らしたというのはヘンな話だ。いくら板挟みになっていたとしても、重病にさえなっていなければ対応策を練ることも、事が収束するまで待つこともできたろう。
重盛は死が近いことを悟ってそう漏らしたのではないか。勇者平重盛でさえも間断なくつづく苦痛は耐えがたかったと思われる。闘病の日々から解放されたかった。心残りに見切りをつけるほかなかったのだ。数ヶ月後、重盛は没した。
 
 武門の平氏と藤原氏のような公家とは気構えがちがう。洛中洛外の治安、警護のため命がけで体を張らねばならない平氏一門と、体を張らず、出陣もなく、比叡山から高みの見物をして、清盛と法皇の板挟みとなってどうのこうのとご託を並べる天台座主・慈円では大違いである。今も昔もインテリは変わらない。
 
 「驕る平家はひさしからず」の文言は、平家物語のなかで「この一門にあらざらむ人は、みな人非人なるべし」とうそぶいたといわれる平時忠(時子の弟)のことばと対になって伝えられた。紆余曲折のすえに出世を遂げた時忠は壇ノ浦後も生き残り、1189年2月、配流先能登国で生涯を閉じる。
 
 九条兼実や慈円のようにエリート臭ふんぷんたる人間に較べると平氏一門はそういう印象が薄いように思え、「平家物語」で語られる重盛、知盛などの面々が都で驕ったり偉ぶっていたとは思えない。
驕り偉ぶっていたのは不比等以来、朝廷の権威をふりかざして特権の座にあった藤原氏嫡流。徳子を高倉天皇に入内させた清盛は藤原摂関家からすれば、お株を奪われ不愉快そのもの。
 
 死を予感したとき何を考えるか、年齢や状況によって異なる。小生や、2018年11月に旅立ったOT君(「書き句け庫」2018年12月7日「きみ知るや古都の日々(4)」)のように「十分生きたから」と思う人もいる。OT君は最後まで重病に立ち向かったが、「トク死ナバヤ」と漏らした重盛の気持ちがわかる時期になってきた。

前の頁 目次 次の頁