2021年3月4日    書き句け庫とうすくち手帖
 
 学生時代の追懐は2005年12月から2018年12月まで連載した「書き句け庫」に綴ってきた。連載を始める前に思ったのは、いま書かなければ記憶のほとんどが消えてゆくということだ。
だれがいつ何をしたか、何を言ったか、いつか忘れる。そしてそのとおりだった。記憶を正確にたどるのは難しい。忘れても読み返せば作中人物がそんなことを言ったとわかる。
 
 「散策&拝観」に掲載した「プチ合宿京都早春」(2016年3月16〜17日)に参加した面々3人と京都御所蛤御門(烏丸通り)の斜め前にあるホテルのレストランでランチをともにしたとき、何かの話で同期の男性(若い女性のウォッチング嗜好があった)が1970年晩秋から数年間小生と交流のあった女性を話題に。
いちいち説明できることではないので小生は完全燃焼したとこたえ、彼の顔に自分は不完全燃焼だと書いてあった。小生の説明に対してではない、彼の経験に鑑みてである。
 
 いまにして思えば、「書き句け庫」に記すことによってその女性との交流を何度も追体験し完全燃焼できたと思う。
彼女は小生の子どものころを聞きたがった。どんな子どもだったの? 近所の風景はどんなだった? 
20代前半、子ども時代を懐かしいと思わず、「夜中、仰向けになってふとんのなかで泣くと、鼻が低いので涙がつたわり、まじり合った」ということのほかに話さなかったと記憶している。
 
 短期間しか連載できないと思って書きはじめた「うすくち手帖」はノスタルジーだ。家の近くに街灯はなかった。満月の明るさといったらなかった。静まりかえった夜。犬の遠吠え。しんしんと降る雪の音まで聞こえた。
 
 昭和32年(1957)までわが家にテレビはなかった。夜、炬燵であたたまりながら何をしていたのだろう。木箱に入ったみかんを取り出し、何個か食べているうちにみかんも温まってくる。木箱が置かれていた台所は寒く、みかんも冷たかった。室内は乾燥し、のどが渇くせいか、こぶりのみかん10個は食べた。
 
 木箱のクギを祖父が抜き、木片を燃やす。火にくべるのを手伝うのは子どものたのしみのひとつ。クギを抜かず燃やすとクギがはじいて危ない。近所にそれでケガをする者がいた。
たき火のあと燃えかすにバケツの水をかけ、灰を埋める。土にかえすのだ。当時の道はほとんど舗装されていなかった。ごみ収集もなく、たき火は冬の風物詩だった。
 
 昼間は行商人がリヤカーをひいて売り歩く声がする。「物干し竿のこ〜かん(交換)」。初夏、「へ〜い、きんぎょ〜や、金魚」。四季の別なく包丁研ぎ、こうもり傘の貼り替え、紙芝居。彼らは自転車をこいで来る。米と砂糖を持ち出してつくってもらうポンポン菓子屋は自転車に荷台を取り付けていた。
 
俵型で両端がやや細く、ススで真っ黒になったでかい製造機に米を入れる。燃料(マキや炭)の入った一斗缶の上にある製造機の片方をぐるぐる回す。できあがって機械のふたを開くときポーンという大きな音がする。煮つめた砂糖をかけると米菓子のかたまりがいっぱいできる。ポンポン菓子屋の来るのが待ち遠しかった。
 
 夏か冬の夕方、ラッパの音。「とおふ〜い、とおふ」のかけ声。日中忙しかった家庭には手っ取り早い一品。春と秋にも豆腐屋は来たのだろうが、おぼえていない。
 
 講釈を言わず、理屈をこねず、うわべを飾らず、気取らず、議論より率直と篤実、迅速と経験を重んじ、政界官界に非効率が蔓延していなかった古き懐かしき、最も思い出深い昭和前期。

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