2022年1月7日    西行の時代 補記(一)荘園と御願寺
 
 2019年1月から2020年3月にかけて連載した「西行の時代」には史料不足のため未解明の箇所、あるいは小生自身の理解が十分でない項目がいくつかありました。調べようにも何を調べればよいのか、所蔵先がどこなのかもわからない。
 
 宝恷s立中央図書館内には清荒神清澄寺蔵書の聖光文庫が敷設され、かなりの史料文献を閲覧できます(貸出不可)。まずは近場から探索開始しましたが全文漢文、注釈も付いていない。
高校時代、英文はスラスラ頭に入って読むのも楽々だったのに、漢文はとっつきにくく、しかも漢文の教師(東大卒)が四角四面、人間味のないロボットみたいで授業中居眠りしていました。
 
 漢文訳出の順番が次週に回ってくるので、予習したことはなかったけれど、父の書棚にあった吉川幸次郎監修・唐詩選の李白だったか杜甫だったかの詩を探したら教科書と同じものがありました。
 
 授業でその通りに言ったら教師がムっとして「放課後、職員室のきなさい」と。「辺境(万里の長城?)派遣兵の妻は、夫の身が心配でやせて帯が緩んだ。きみの訳はなんだ。ふざけるな」と言う。帯の緩みは長期不在で男が欲しくなった若妻の象徴と訳しました。艶のある訳出は京大系。やせ細るのは東大系。
 
 2021年9月下旬、高橋昌明氏が「都鄙大乱」(とひたいらん)を上梓され、ようやく読み始めた12月、御願寺と荘園の関係性について行く手を覆っていた霧が徐々にはれていく思いです。
 
 御願寺(ごがんじ)の成り立ちについては、白河法皇が述べたという「王法は如来の付属にて国王興隆す」の文言が重視されており、竹内理三(1907−1997)が編纂した「平安遺文」の古文書編(1947−57刊行)1993号に紹介されています(「都鄙大乱」)。
 
 院政期に荘園が激増したのは御願寺と関係のあることはわかっても、学者のみなさんが説明力不足なのか、近著「荘園」(伊藤俊一著 2021年9月刊)は荘園の歴史を詳細に記し、御願寺と荘園に関しても解説していますが、人名、地名、数字がいっぱい出てくるだけで理解しにくい。
 
 古代史に出てくる「班田収授」も実体を理解せず用語だけおぼえていたのは、中間考査などに出題されたから。
飛鳥時代、農民は20から30人の家族単位で生活を営み、律令国家はそれを戸と呼んでいた。口分田(くぶんでん=男と女や奴婢で支給面積は異なる)も習いましたが、よくおぼえていません。
 
 奈良時代、聖武天皇治下の墾田永年私財法によって各地につくられたのが初期荘園です。
伊藤俊一著「荘園」に、「初期荘園は貴族や大寺院が個人所有の墾田を買収したり、個人から墾田の寄進を受けたり、私財を投入して荒地を開墾することによって設立された」と記されているけれど、個人とは誰かの言及はありません。皇族、貴族、僧など土地所有者のことでしょうか。
 
 荘園制度は平安時代に入って徐々に変化していきます。天災で村落が荒廃するさなか農民に富豪層が登場。かれらは徴税官の国司に武力で抵抗したり、都の有力貴族に田畑を寄進して荘園経営に乗り出します。国司のなかには平正盛・忠盛父子のように上前をはねて荘園を増やしていく者もいた(忠盛は清盛の父)。
 
 新農地は富裕農民が開発し、それが荘園となって荘園は増えてゆく。寄進の見返りに中央官庁の徴税を逃れる輩もいましたが、古くからの土着農民は気候変動や天災があっても容赦なく徴税されました。荘園からの上がり米や穀類は大きな財源となります。
富裕層農民からの貧困層農民への搾取も横行したそうです。徴税できない荘園の増加によって国家財政の基本である税収は減少。財政は危機に瀕します。
 
 その対応策として10世紀初め、朝廷は荘園整理令を発布して、貴族などと結託した富裕層による田畑の独占、新たな荘園の開発を禁止。借金のかたに奪った田畑を困窮農民に返すよう命じました。11世紀半ばにも朝廷は何度か荘園整理令を発布。
 
 平安末期の院政で有名な白河法皇は御願寺(ごがんじ)の造営に執心します。「都鄙大乱」によれば、御願寺とは「「天皇・上皇・皇后・女院などの発願によって建てられた寺院」で、「王家の追善供養を目的に造営され」、「仏事・造寺は上皇・法皇の個人的な嗜好であるだけでなく、当時の都鄙・上下あげての風潮となっていた」らしい。
 
 白河法皇後半から鳥羽法皇、そして後白河法皇の院政期、多数の御願寺が建てられました。御願寺では、「国家の隆昌を祈る修正会(しゅしょうえ)、修二会(しゅにえ)などの恒例仏事のほか」に、「天下泰平、玉体安穏のための千僧御読経(みどきょう)など臨時の仏事も盛んであった」といいます。
 
 当時の御願寺はおおむね焼失か廃寺となりました。白河帝の法勝寺八角九重塔の高さ81メートルは東寺五重塔の1、5倍。堀川天皇の尊勝寺、鳥羽院の最勝寺、待賢門院の円勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺。六つの寺院は勝がつくので六勝寺。御願寺としての規模は広大で、以降、それほどの大規模な御願寺は建てられていません。
 
 そのほかにも蓮華蔵院、円光院、無量光院、宝荘厳院、安楽寿院、金剛心院、蓮華王院(本堂が三十三間堂)など御願寺は多数におよんでいます。「御願寺には専属の僧侶はほとんど所属せず、仁和寺、東寺、延暦寺、園城寺、東大寺などから僧侶を招いて法会が行われた」(前掲書「荘園」)そうです。
 
 御願寺の造営資金は平忠盛などの国司による成功(じょうごう)で賄われてきたと考える説が有力でした。建立に莫大な資金を要し、維持運営にもさらなる資金が必要となります。
「財源として大量の荘園が必要となり、その爆発的な増加が地方社会に重すぎる負担を及ぼし不満が累積していき」(「都鄙大乱」)、それが擾乱の引き金となる。
 
 保元・平治の乱を経て中央におどりでた清盛と平家が、治承三年(1179)の政変によって多くの荘園を獲得したことは、地方の有力者や武士の反発を招きます。
「都鄙大乱」の著者高橋昌明氏が治承年間前後に右大臣だった九条兼実の日記「玉葉」を重視するのは、「当時の政治状況に通じているとともに、後白河院やほかの貴族たちの言動への鋭い批判がみられる」からでしょう。
 
 しかし兼実はとかく世渡りのためにコロコロと言うことや立場を変える。平家を倒した頼朝に対しては、成り上がりの上に立つ成り上がりという蔑視、そして同時に恐怖が混ざり合っていたから当然でしょう。
夷狄(いてき)扱いして蔑んでいた奥州の藤原秀衡に対して源平合戦のおりには財力武力に富む彼を頼るという按配。一貫して批判的だったのは目の上のたんこぶ清盛に対してだけだったのではないでしょうか。
 
 御願寺造営費用は成功により賄われたということでしたが、「都鄙大乱」は「丸山仁氏は、鳥羽院の御願寺・勝光明院造営事業のていねいな復元研究を通して、成功(じょうごう)だけで可能になるものではない現実を具体的に明らかにした」と記しています。
 
 願主の鳥羽上皇は経費負担しただけでなく、工事現場を視察し作業状況を確かめ、重要箇所は自ら指示を与えていたそうです。石井進氏は「御願寺が所有する荘園は鳥羽院政期に爆発的に増えた」として、膨大な建造費、補修費、仏事、法会などの経費は新荘園から捻出したことを述べておられます。
 
 平安末期の白河・鳥羽・後白河帝は、藤原摂関家から政治を取りもどして院政をおこなう強い心を持っていました。特に白河院と鳥羽院は御願寺造営と院政財源確保のため荘園獲得に乗り出し、政権運営にも強気でした。鳥羽院は御願寺だけでなく広大な離宮(鳥羽離宮)建設もおこなったので、なおいっそうの資金が必要でした。
 
 平安末期の天皇が荘園獲得に積極的だったのは、飢饉、疫病、中央の混乱、地方の紛争などにへこたれないための気構えであり、建築と造仏は経済効果をもたらすという目算があったのかもしれません。御願寺に託す来世安寧は、王家の願意であり、末法思想うずまく時代の要望であったのかもしれません。
        


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