2022年1月16日    西行の時代 補記(二)八条院ワ子
 
 平家滅亡の兆しを見る上で明らかとされているのは、治承三年(1179)の政変と治承四年(1180)におこった以仁王の挙兵です。治承三年の政変は2020年2月4日「後白河法皇幽閉」に、以仁王の挙兵は2020年2月22日「清盛晩年(1)」に記しました。
 
 以仁王(後白河法皇の第三皇子)が頼みにしていた養母・八条院(ワ子あきこ内親王 1137−1211)は鳥羽院と美福門院の子で、両院から莫大な財産=日本最大の荘園所有=を相続し、愚管抄によると近衛天皇崩御のさい、次期天皇候補にあがったこともあるそうです。
 
 鳥羽院の愛を一身にうけて育ったとされる八条院ワ子(あきこ)は王家主流であり、「平家も容易に手出しできない存在感を放っていた。政争で不利となった人びとにとって、八条院の御所は避難所、聖域の観を呈し、財力、荘園群にかかわる人脈は大きな魅力であった」と「都鄙大乱」は記します。生涯独身を通し、人望もあった特異な存在・八条院ワ子。
 
 永井晋氏は「八条院の世界」(2021年6月刊 山川出版社)でさまざまな史料を克明に調べ、経緯を詳細に記しており、「鳥羽院がワ子内親王を手元において育ててきたというのは今鏡からうかがえるし、鳥羽院と美福門院は、ワ子内親王が幼いときから三人で行動を共にしていたと仙洞御移徙部類記(せんとうおんいしぶるいき)からうかがえる」と述べています。
 
 以仁王が八条院の御所まで落ちのびていれば、そして八条院が以仁王を出家させていれば清盛はどう対処したでしょう。出家前なら引き渡しをせまることはできたとしても、八条院に拒否されてなお捕縛を強行することはできず、処罰するとしてもせいぜい配流くらいしかなかったのでは。
 
 「八条院の世界」によると、「以仁王が謀反を企てているが、信用できない」(「玉葉」)。「罪科、未だ露見せず」(藤原親経の「親経卿記」)。親経は政権内部の人ゆえ「玉葉」の著者九条兼実より内部事情に通じています。
 
 治承四年五月十五日、以仁王捕縛に向かった検非違使があまり積極的でなかったのは八条院の恩顧の賜物とされています。清盛も相手が八条院では強硬手段に訴えたくありません。
彼女を敵にすれば、二条天皇の旧臣と清盛の娘婿高倉天皇の重臣が不快となり、先行きが案じられる。そうこうするうち以仁王は園城寺へ逃げ込んでしまう。
 
 以仁王は八条院所有の荘園関係者(源頼政など)を当て込み、八条院の後ろ盾があると彼らに認識させ、共に挙兵してもらいたかったのです。その他大勢の一人にすぎなかった頼朝が歴史に登場するきっかけは以仁王の令旨(りょうじ)。
 
 頼朝が源氏の棟梁とみなされるまでには、義朝時代からの複雑なパズルがあり、それを云々すると話が別方向にいってしまうので割愛。平治の乱後、伊豆に流された頼朝は無力となり、20年におよぶ流人生活によって都の貴族から完全に忘れられてしまう。それより以仁王の令旨です。
天皇の命令である勅書に対して令旨は皇太子や三后(さんごう=三宮ともいう 太皇太后、皇太后、皇后または中宮)の命令書です。親王宣下さえうけられなかった以仁王は令旨を出すことはできず、令旨という形は異例。
 
 形式はどうあれ令旨が何を、誰を奮起させるかです。東海、信濃、北陸、関東にあまねく平家政権に不満を持ち、あわよくば荘園横領をもくろむ武士が少なからずいたことが平家滅亡につながるでしょう。
それより前、度重なる御願寺造営によって農民は建築労役を課され、地方の荘園を管理する武士に重くのしかかったと考えられます。不満の蓄積がくすぶり、煙をあげるのは時間の問題だったかもしれません。
 
 しかし本来は御願寺造営の張本人である法皇や天皇、または朝廷と一体になって荘園を獲得してきた摂関家に対して向けられるべき不満が平家に向けられたのは、朝廷や摂関家が雲の上の存在であり、成り上がりとみなされている平家は身近な相手だったからでしょう。
治承三年の政変の結果、平家一門の荘園がさらに増え、治承四年に高倉天皇が降位し、清盛の孫が安徳天皇として即位したことで不満に火がついたのではないでしょうか。
 
 以仁王の令旨の内容は、「平家の罪状を国家への反逆と仏法破滅の二点に求め」、自らを「物部守屋を滅ぼした聖徳太子になぞらえ、護国の経典・金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)にちなんで最勝王と名乗り」、さらに自らを「大海人皇子に擬して即位予定者と規定」したというものです。令旨は特定の人に対しても、また源氏にも頼朝に対しても発せられてはいない。頼朝の名はどこにも見えない。
 
 八条院との関連で、後白河法皇の第一子で祖父の鳥羽院が引き取り、美福門院に養育された後の二条天皇について述べねばなりません。「二条天皇は鳥羽院の遺志を継ぐ天皇として、鳥羽院政を支えた重臣たちを引き継ぎ天皇親政をおこなった。その基盤は美福門院、八条院母子である」(「八条院の世界」)。
 
 当時、「二条天皇、八条院とつながりを持つ公卿が朝廷の上層部を占めて」おり、「後白河院支持は清盛のみである」(前掲書)。二条天皇親政派死去による衰退は痛い。後白河院と平家の連携のなか、それをよしとしない人たちが「八条院御所に集まり、中立勢力八条院の世界を形成していくことになる」(前掲書)。
 
 治承四年十二月下旬、平重衡を総大将とする数千騎が奈良街道を南下、興福寺に向かいます。興福寺など南都勢力はかつて以仁王と連携しており、以仁王令旨による関東の軍勢に呼応し上洛準備に入っているとの情報もあったらしい。清盛にとって以仁王をかくまった園城寺の次に南都も一撃を加えねばならない存在でした。
 
 平家による園城寺の焼討ちは南都焼討ちの半月前。治承四年師走、近江源氏が立てこもっている園城寺に清盛は追討軍を差し向けました。
「愚管抄」は園城寺に関して、「堂舎を除き房々は多く焼き払わせ」と書き、「玉葉」や「山槐記」(さんかいき 中山忠親の日記)は、「堂舎は対象外で、金堂は延焼したが消し止めている」、また「悪徒を捕らえ、僧坊を焼き払うと予定されて」(「玉葉」)と記しています。
 
 そこから推定されるのは、南都の場合も堂舎は焼かず、悪僧が居住する僧坊のみ焼討ちするということです。しかし、おりからの強風にあおられ、興福寺、東大寺の主な堂舎が延焼し、その中に避難していた多くの人びと(僧俗)が焼死しました。
最初に興福寺僧坊に火を放ち、強い西風が吹き東大寺に延焼したのか、両寺僧坊に火を放ったのか定かではありません。いずれにしても清盛や重衡の誤算というほかありません。
 
 「平家物語」は、「夜戦のため明かりが必要となり火を放ったところ強風で燃え広がった」と大がかりな狼煙を上げたかのごとくに語り、「延慶本平家物語」は、「意図的に堂舎も焼き払った」として重衡に批判的です。事実を拾い集めるのは難しい。
 
 興福寺は現在の奈良公園も占める広大な境内を持っていましたが、東西の金堂、北円堂、南円堂などすべて全焼しました。「都鄙大乱」によると、「興福寺に安置されていた創建以来の諸仏は平家の兵を怖れて一体も運び出せなかった」(「玉葉」)そうです。
東大寺は法華堂、二月堂、正倉院などが焼け残りましたが、「金堂(大仏殿)、講堂、戒壇院など多くの建物が焼け、盧舎那仏の首がころがり落ち、手も折れて前に倒れ、燃えがらが山のように積っていた」(東大寺造立供養記)といいます。
 


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