2019年1月9日    西行の時代 北面武士(1)
 
 風雲急を告げる平安末期にあって御所の警護にあたる「北面武士」(ほくめんのぶし)は、僧兵対策などに苦慮した白河天皇が創設したとされる制度で、任についた者は、御所の北塀沿いに五間の住まいを与えられた軍事専門の下級貴族や武士でした。
白河天皇は比叡山僧兵の乱暴狼藉に手を焼いており、叡山を下って鴨川まで押し寄せる僧兵に対して約1000の北面武士を使って食い止めることもあったそうです。
 
 白河天皇が院政を司っていた1108年、比叡山延暦寺の数百名ともいわれる僧兵らが神輿を押し上洛しようとします。そこで北面武士である平正盛(清盛の祖父)麾下の平氏が歴史の表舞台に登場。
その後も北嶺延暦寺、南都興福寺の僧兵による強訴(力ずくの訴え=とは名ばかりで、実態は乱暴狼藉)阻止のため平氏主力の兵が対応しました。正盛の子・平忠盛もそうした対応を任され、父親同様白河院、鳥羽院の信頼を得たのです。
 
 白河院は自らの住まい=白河御所=を現在の京都市左京区岡崎に建てました。岡崎は鴨川の東に位置し、僧兵にとってみれば鴨川を渡らず短時間でデモンストレーションをおこなえますが、白河院側からすれば迷惑千万。岡崎近辺は白河天皇の院政前は寂寞たる荒れ地でした。
 
 いわゆる六勝寺(法勝寺、最勝寺、円勝寺など)が白河院政時代の天皇(白河院の子孫=堀河・鳥羽・崇徳)と待賢門院璋子によって建てられ、岡崎一帯が都のにぎわいをみせはじめたのです。
院政が法皇中心の政事になることをにがにがしく思う藤原一族は氏寺である興福寺にはたらきかけ、白河院に圧力をかけるための実働部隊・興福寺僧兵が奈良街道を北上、洛内に押し寄せました。院側は確たる証拠があっても背景を表沙汰にはできません。後宮も天皇・皇子も藤原氏の血脈だらけです。
 
 もちろん僧兵の動きは寺社同士の対立や派閥争いがからみ、白河院の近習がうまく対応しなかったことにもよるでしょう。寺社への影響力が強いのは天皇ではなく藤原氏です。特に関白・藤原師通(もろみち 1062−1099)は白河院に対して批判的でした。
院の使者と堂々とわたりあうどころか、院の荘園政策の矛盾をあげ、自らの政策の正当性を主張したと「師通記」(師通の日記)に記されています。
 
 使者の日記は残っていないので「師通記」の信憑性云々はあっても、白河院に遠慮のない師通ゆえ、日記の内容に疑義をはさむ余地はないとみるのが妥当です。院と関白家の対立は洛外にまでおよび、各々の代理抗争へと展開しました。
北嶺と呼ばれた比叡山の天台座主におさまった(12世紀末)慈円の父は摂政関白・藤原忠通、兄は九条兼実(摂政関白)。藤原氏とつながりのある寺社は白河院とその後の天皇を牽制していたのです。
 
 白河院が摂関家の動きを知らないわけもなく、かといって目立った動きもできず、藤原一族と親密な関係を持たず、しかも武力に長けた北面武士・平忠盛に北嶺・南都の僧兵鎮圧を任せたのは正解でした。しかし平清盛が平安末期の覇者になると誰が予想したでしょう。
清盛の祖父・平正盛は下級貴族でしたが、白河院の愛娘(郁芳門院)の菩提寺(六条院御堂)に自らの所領を寄進し、そのみかえりに北面武士に任ぜらます。北面武士になってすぐさま1107年12月中旬、正盛は出雲に派遣されます。源義親(源義家の嫡男)征伐です。北面武士任命と追討の時期が接近している、つまりは手回しがよすぎることで院内の考えがわかります。
 
 正盛は源義親を討ち取り凱旋しました。1108年正月下旬。「中右記」は正盛の迅速な功を絶賛しています。「院の近辺に候ずる人、天の幸ひを与ふる人か」と。清盛が権力を握ったのは、彼自身の能力、作戦実戦のうまさのみによるのではなく、祖父・父の功績という下地あってのことといえるでしょう。
 
 佐藤義清(のりきよ=西行)は鳥羽天皇(白河天皇の孫)に仕える北面武士。天皇、法皇専用のいわば傭兵といえるでしょう。
平安末期は成功(じょうごう)という官位買取が頻繁におこなわれていました。当時の下級貴族で財力のある者は成功によって任官されるケースが多く、成功というのは、皇宮、社寺(天皇や皇族が造営)の建設資金が乏しいとき資金を寄進した人に官位を与える方法のことです。
 
 佐藤義清は成功で官位「兵衛尉(ひょうえのじょう)」を得、佐藤兵衛尉義清として後に鳥羽天皇の北面武士となりました。時に数え年18歳、「古今著聞集」に「西行法師、出家より先に徳大寺左大臣の家人にて侍りけり」とあるのは任官前(おそらく10代半ば)、徳大寺実能(さねよし=1096−1157)の家人になっていたからです。
 
 徳大寺家実能は藤原北家・藤原公季(957−1029)の流れをくむ徳大寺家の祖であり、和歌に秀でた一族でもあります。佐藤義清に影響をおよぼさなかったはずはないでしょう。
義清が北面武士として鳥羽天皇に召し抱えられたのも、和歌の存在を見過ごせません。そしてまた、徳大寺実能の妹は鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子(1101ー1145)。馥郁たる香りただよう幽艶の美女、西行の人生に大きく関わる女性です。
 

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