2019年1月12日    西行の時代 待賢門院璋子(1)
 
 平忠盛(清盛の父)は正盛同様、白河院のおぼえめでたく、検非違使や院判官代をつとめたのち院別当(長官)となって、1132年に昇殿の許可を得ました。すなわち殿上人(清涼殿・殿上の間へ入る)になったのです。下級貴族からようやく抜け出すことができました。その後、忠盛は天皇領である肥前・神崎で日宋貿易に関わったり、南都興福寺・僧兵の入洛を防ぐなどの功績により正四位上まで官位はあがります。
 
 忠盛が没し、鳥羽上皇も崩御し、残された天皇上皇、藤原氏などが互いの利害と面目を賭け、あるいは、相手の陰謀に乗せられて起きた保元・平治の乱については今後紙面を割かざるをえず、北面武士に関することも「北面武士(2)」以降に述べるとして、鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子という平安末期を代表する女院(天皇の生母)を語らねばなりません。
 
 21世紀の現在に至るまで生きながらえている私は、子どものころや青春期の自分を受けとめてくれる人がいるなら生きることに意味があると思っています。
西行が生きた12世紀は生きること自体に意味があったかもしれません。下級貴族は何をよりどころに暮らしていたのでしょう。徳大寺実能(さねよし)の家人として徳大寺家に出向いていたころの佐藤義清は何を見、何を感じていたのでしょう。
 
 実能の一族から影響を受けたとして、佐藤義清が生まれた1118年、実能の妹璋子は鳥羽天皇の中宮でした。義清が数え年18歳で召しかかえられたころ、璋子は満34歳になっていたはず。
璋子は幼いころ白河法皇の養女となり、溺愛され、しかも自由奔放にふるまっていました。白河院の肝煎りで関白藤原忠実の嫡男忠通との縁談話が持ちあがったのですが、忠実は璋子の早熟の発露というべきご乱行を知っており固辞しました。
 
 璋子について随一の研究家・角田文衞著「待賢門院璋子の生涯」を巻末まで読み、作品の特異性に魅了された人には既知のことで、角田文衞氏(1913−2008)会心の名著を素通りするわけにいきません。巻末「待賢門院略年譜」だけでも一読する価値は十分あります。
最初に上梓されたのは昭和49年(1974)、選書となったのは昭和60年(1985)、私が読んだのは選書発刊後の1993年です。感服し、以来25年、拾い読みしています。
 
 史家はその道の専門家であっても、その著書は史料と文献を駆使し史実を列挙しながら自説を述べるにすぎず退屈、文章はお世辞にもうまいとは言えません。
博士論文でも学術論文でもない一般刊行書の鉄則は、専門家以外の読者を魅了させるかどうかです。史料・文献を使い倒しても、読者がおもしろいと思わなければ紙の束。著者の文章力と編集者の構成力は必須。
 
 「待賢門院璋子」を読み進めるうちに角田文衞の構成力&文章力に瞠目し、それまでの認識は一変しました。それから随分とほかの文献を読みあさりましたが、角田氏の作品にならぶ書は出ていません。
 
 文系学者という生きものは専門意識というか、学生時代に何を専攻したからとかの意識が強く、専攻意識の強さは学者にかぎらずほかの職業に携わる人たちも類似しており、いつまで学生をやるつもりなのか、知識をならべたてる者の多さに唖然とします。
 
 道をきわめようと発起すれば、知識を増やすより経験を積むことに専念すべきでしょう。歌人の道をあゆむなら、都で安穏な暮らしをせず山野をさすらうべきです。
七道(道制)のうち山陽道、西海道は別として東海道、山陰道などは整備されず、宿場すらない平安末期、「古代の道」または現在「古道」と呼ばれる細道が利用されていた時代、一人旅は旅そのものが困難の連続です。まして西行の場合は、都に未練を残していたとしても、野に下るのではなく彷徨するのです。森羅万象と出会うために。
 
 「野に下る」とか「在野精神」とかのことばがあり、「在野精神」は大隈重信が言い出したらしく、「野党精神」ということだそうです。「野に下る」は明治期の政治家、ジャーナリストが言い出しっぺなのでしょうか。
自分で勇ましいとでも思っていたのかどうか、彼らは野に下る前、雲上の人であったのかもしれません。大臣・官僚など雲上の人を俎上にあげるジャーナリストは、雲上の上にいるのでしょう。
 
 明治期以降、ジャーナリストの高慢が続いているのは、山野をさまよった経験のない者が言論という理屈をこねくりまわして、自分以外の人間の内奥、懊悩を感得せず、情報と知識の断片だけでわかったつもりになっているからではないか。
 
 苦難を体験すれば、計り知れぬ人間の気持ちがわかるはずです。心と関係のないインターネットでも報道できる当世、在野精神という信仰によるのか、明治期以来、世間の数歩あとからついてきて、常に世間におくれをとっている自分のすがたが見えていません。固定観念とか自意識過剰にとらわれる者を呼べと言われれば、ジャーナリストを連れてくるにかぎります。
 
 西行や空海には空白の数年があり、どこで何をしていたのか年譜にも記されていない時期があります。各地に空海伝説と西行伝説が存在するのはそのためです。森羅万象へ向かって旅立つのは自らの意志であり、思いもかけない邂逅を望んでいたからでもありましょう。
平安末期、歌を通じて崇徳天皇と知遇をえた藤原俊成(1114−1204)は若いころ国司を歴任し、地方を見ています。
 
 天才は天才を知るというように俊成は4歳年下の西行の才能を見抜いていたでしょう。俊成がほぼひとりで撰にあたったとされる「千載和歌集」に西行の歌18首が採られています。
山河をかけめぐる西行のすがたが俊成の目に浮かんだのかもしれません。西行は旅先で得た浜木綿や、拾い集めた貝殻を都の俊成に送っていますが、この微々たる贈りものを贈賄とみるのは浅心、先達への敬意と親近のあらわれとみるのが妥当です。
 
 西行が俊成に勧進し、判旨(歌の優劣の判定)を問いかけた「二見浦百首」のなかに「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮」があります。後に「新古今和歌集」に撰入された西行の歌は「見渡せば 秋の夕暮」を含めて94首、最多です。
 
 
 さて璋子です。選書版「待賢門院璋子の生涯」のあとがきで角田文衞氏は、「璋子の璋は圭璧(けいへき)のことで、訓みはタマ(玉)であるからタマコと訓むのが正しい。平安時代におけるX子型の女性名は、すべて訓読したのであり、璋子をショウシと音読したりするのは誤りもまた甚だしいのである」と述べています。
学者ならまず書かないのは、ショウシとは笑止。それはともかく、角田氏はあえて「あとがき」に「タマコ」と書き記すことで学者専門家にクギをさしたのか。
 
 角田氏の著述が興味深いのは、自らを正統と考える史家があまり使わない史料「殿暦」(でんりゃく=重要文化財)を紹介していることです。関白・藤原忠実(1078−1162)の日記「殿暦」に「(璋子について)奇怪なる聞えあり」とか、「乱行の人」と記されており、忠実が璋子を軽侮し、璋子入内に「日本第一の奇怪事」と批判する日記の一文を角田氏は取り上げています。
 
 未婚女性が性的関係をもつのは問題にならなかった当時、忠実がわざわざ日記に書き残したのはなぜか。角田氏の真骨頂はそこから始まるのです。詳細について関心のある方は同著選書版の「乙女の頃」をお読みください。璋子の相手は二人いて、一人は璋子に篳を教えていた藤原季通(すえみち=生没不明)。季通は白河法皇の寵臣・藤原宗通の四男。
 
 10代半ばにさしかかった璋子が季通と密通していたことは公然の秘密であり、院の内外で知らぬ者はいないほど有名であったようです。知らないのは白河院だけだったでしょうから、知ったときの顔を見たかった。
「平家物語」巻第一「願立」(ぐわんだて)に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬものと、白河院も仰せなりけるとかや」という有名な文言があります。璋子の品行もかなわぬものの一つであったでしょう。
 
 もう一人の密通相手は璋子が数え年14歳になって大病を患い、平癒祈祷のため白河院が招いた僧に随行した童子。角田氏は「よほどの美少年であったのであろう」と述べておいでです。
白河院はその二人を御所への出入り差し止め、そして季通は官位昇進をしばらく延期し、童子は難波へ異動という穏便な措置としたのは、璋子溺愛というより、不埒を逆手にとった白河院の寛大さを示す姿勢のあらわれなのでしょうか。
 
 待賢門院璋子は鳥羽天皇とのあいだに5男2女をもうけたといいいますが、17歳から28歳までの11年間に7人産むのは、多産といえばそうかもしれず、息つくひまもあらばこそです。子のなかに後の崇徳天皇、後白河天皇がおり、崇徳天皇は白河法皇の子であるとする史料も存在します。崇徳天皇と西行は1歳ちがい(西行が1歳上)、浅からぬ縁で結ばれていました。
 

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