2022年1月30日    西行の時代 補記(三)都の出来事

 
 平安末期の女院に仕えた女房のなかに、美福門院得子と八条院ワ子(美福門院の娘)に仕えた五条局(藤原俊成と再婚)がいます。後に美福門院加賀と呼ばれ、定家の母となります。
俊成と五条局の娘八条院中納言は建春門院滋子(しげこ)に仕えていましたが、建春門院崩御後は八条院に仕え、晩年になって八条院についての回想記「たまきはる」を著しました。弟定家の日記「明月記」と姉の「たまきはる」は貴重な史料。
 
 「たまきはる」に「八条院御所への出仕希望者が多く、出入りは絶えなかった」と記されています。八条院は全国に104ヵ所の荘園を所有(「八条院領目録」)。鳥羽院から相続した荘園と重臣によって都で重要な位置にいた八条院。
治承四年(1180)八月になって反平家の挙兵が増え、清盛は福原から京都へ帰還します。反平家は東国だけでなく美濃・近江でも活発化(「山槐記」)。それらの追討軍を派遣するさなか清盛は病没する。
 
 平家が大軍を動員できなくなったのは清盛の死より、西日本一帯の旱魃(かんばつ)により兵糧米の調達が困難になったからです。同じころ「頼朝は南関東の地盤固めに忙しく、戦線は膠着状態になった」(「都鄙大乱」)。
木曽義仲が頼朝の指令で動いたとするのは疑問。義仲の父義賢を滅ぼしたのは頼朝の兄義平です。義仲が都に上った動機は以仁王の令旨と考えるほうがよいでしょう。
 
 清盛が権力を握っていく過程で宮廷工作をおこなったように頼朝もおこないます。清盛の没後、「我、君に反逆の心無し。君の御敵を伐ち奉るをもって望みとなす」と頼朝が語ったことを伝えています(九条兼実の日記「玉葉」)。ほんとうでしょうか。
この文言は政治声明じみており、「君」はおそらく後白河院。院政を再開した院にとって頼朝などの軍勢はまたとない軍事力。きのうの反乱軍はきょうの救世主。後白河院と頼朝はそうして協力関係をつくっていきます。
 
 都は依然として平家の手中にある。都を争乱から救うためにさまざまな政治的駆け引きがあったと考えられますし、平家宗主となった宗盛は兵力不足と世の平安を願う立場から和平も考えたかもしれません。頼朝側からも働きかけがあったのではないでしょうか。
源平合戦などの物語で戦いだけがクローズアップされ、平安末期の武士は単純という印象を与えかねないけれど、殺戮で多くを失った人びとの上に立つ者が和平交渉を持ちかけなかったはずはないと思われます。
 
 都でおきた最大最悪の出来事は源平の争乱ではなく養和(1181−82)の飢饉です。「方丈記」は都の惨状を生々しく語っています(2020年3月1日「西行の時代 清盛晩年(2)」)が、「養和二年記」によると物価の高騰、強盗の横行などのほかに、生活のため家を壊し、薪にして売る人もでる。「百錬抄」は「検非違使が制止してもやめなかった」と述べています。
 
 養和二年の「醍醐雑事記」巻十には、飢饉による年貢未納のため一月に醍醐寺の予算が棚上げされ、二月は粥も事欠き、三月に入ると(薪不足で)湯も沸かせなくなったと記しています。
 
 窮状はほかの寺院でも頻発しており、「都鄙大乱」に「仁和寺転輪院(白河法皇建立)で修二会には内裏から人は一切参られず、法会実施困難を言上しても費用の援助はなく、式日は違わずおこなうべしと命じられ、かたちばかりおこなっています」(「吉記」=きっき 吉田経房の日記)とあります。
 
 養和二年記正月二四日、「火冠に火」惑(けいわく 火星)と歳星(さいせい 木星)が異常接近したのを不吉の前兆とみて、慎みあるべき」と記しています。「異常接近は都でも大きな話題となった」(「玉葉」)らしい。
そのときの天体の運行は、「平家が後白河院政を停止、国政の全権を掌握した治承三年の政変(1179)時に酷似している」と記していること。「養和二年記」の作者は陰陽師・安倍泰忠(安倍晴明の五代後・泰親の孫)とされています。
 
 平安末期、都の夜の闇は深く、星の輝きはひときわ美しく、雲の流れもくっきり見えたに違いありません。早雲に見え隠れする月もさぞ明るかったでしょう。しかし寿永二年(1183)八月、暗雲は木曽義仲を連れて都にあらわれます。
 
 押しよせた義仲兵の略奪で都は混乱、陸の孤島状態となります。物資が強奪され、届くのはほんのわずか。宮廷の官吏も職務が果たせません。品薄で東市、西市が機能せず、売買もストップ、「上下の都人の多くは片田舎に逃げ去った」そうです。
 
 右大臣九条兼実は「玉葉」に、後白河院の諮問に対して「反乱の鎮圧より民の救済が優先する」と述べ、続けて、「神仏に祈ると沙汰すれば効験があるかもしれない」というようなことも述べています。民の救済が優先するなんてことは、いつの時代でも誰もが言う。
せめて国庫や摂関家からの供出を進言できなかったのか。対応策を練る立場の人にしてはお粗末。世の中には、持っていても使わない人、持っていて使う人、持っておらず使えない人がいる。
 
 兼実は「天 なんぞ無罪の衆生を棄つるや 悲しむべし 悲しむべし」と記しています。いざというときに態度をあいまいにして、ことばを濁したり、ことばをすり替える。実行力のない人間はいつもそうです。長年にわたって綴られた「玉葉」が重要な史料であるとして、兼実という人物を高く評価できるでしょうか。
 
 元号は前後します。治承五年(1181)、清盛没後まもなく後白河院は左右大臣(左大臣は藤原経宗)に、平家が一部没収した東大寺興福寺の寺領(荘園)を返還すべきかを諮問しました。興福寺所有の荘園は全国に及び、そのことを背景に以仁王と結びつくなど楯突き、反抗していたので、清盛が一部を没収したのも当然といえます。
 
 藤原摂関家の利益となる返還について左右大臣は賛成し、両寺領は返還されたようです。没収から約二ヶ月しかたっていない返還に対して宗盛以下平家が黙っていたのかどうか不明。
 
 同年、興福寺東大寺の再建話が持ち上がります。興福寺は聖武帝の官寺東大寺とちがって藤原氏の氏寺ですが、朝廷が維持費を支払うという一面があり、再建には国と藤原氏が分担するということで調整されます。
国家予算が疲弊するさなか、東大寺は藤原一門の支援もないし、規模だけは興福寺より大きく、大工事、大出費が見込まれました。夏になって重源が勧進上人という肩書きで祈願。彼は武士出身、醍醐寺で出家したという経緯があります。
 
 重源の依頼をうけ平泉へ旅立った僧がいました。藤原秀衡(の沙金)の勧進が目的です。安田章夫著「西行」に「秀衡は西行の一族であったから、この大役を果たすのは適任とみられた」と書かれています。西行がみちのくを旅して約40年、東北を再訪することになります。文治二年(1186)のことでした。

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