2022年2月2日    西行の時代 補記(四)都を離れて
 
        年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山
 
 「西行法師家集」の「東の方へ相識りたる人のもとへまかりけるに」として歌われたものが、「新古今和歌集」に撰入された西行68歳(1186年)の歌。「相識りたる人」は藤原秀衡。「中山」は掛川市と島田市との境にある山とか。「年をへてまた来るとは。いま越えられるのは生きているからです」。
 
 みちのく行き途上の晩夏、西行は鎌倉で頼朝に会う(「吾妻鏡」)。吾妻鏡は脚色が多く疑わしいけれど、同書によると、鶴岡八幡宮に参詣した頼朝が一人の老僧と出会い、梶原景季(かげすえ)に名前を問いただしたところ西行とわかったそうです。西行は歌人として知れわたっているだけでなく、先祖は平将門追討で名を上げる弓の名手・藤原秀郷。
 
 頼朝の問いに対して西行は、弓矢は罪業のもとになるからすべて忘れた、歌は折にふれ花月を31文字にするだけで深い趣は知らない。それゆえ話するようなことは何もないとこたえます。
頼朝はなお食い下がり深夜に及びます。翌日、頼朝が引きとめるのを西行は断り、贈りものの銀製の猫をいったん受け取って、門前で遊ぶ子に与えたそうです。
 
 吾妻鏡は北条家サイドの歴史集です。頼朝に会ったのは事実であるとして、西行は都の混乱の元・頼朝に勧進する気は毛頭なく、あれば「吾妻鏡」は得意げに記述するでしょう。
 
 保元の乱で都ははじめて戦乱の舞台になりました。その後も洛中洛外で争乱があり、木曽義仲が乱入したのは頼朝の蜂起に端を発します。「弓矢は罪業のもと」なのです。
飢饉、疫病が続発し、都は存亡の危機に陥っているのに合戦などやっている場合か。当時の武士にとって民の救済は眼中になく、都を苦痛と混乱に陥れている頼朝は盗賊武士の親玉にすぎない。西行の眼にはそう映っていたのかもしれません。
 
 秀衡に会うため先を急いでいた西行の気持ちを考えれば、風雅に無縁の人と長話したくなかった。頼朝が花月を愛で、ゆたかな感性を持っていると感じたなら、西行は和歌について話したでしょう。頼朝は相手にされなかったのです。
 
               白河の 関路の桜 咲きにけり 東より来る 人の稀なる
 
 翌春(1187)、みちのくからの帰路に詠んだと推定される歌です。都の白河は花見の人びとが多いのに、みちのく白河でひっそり咲く桜。関東からの旅人もほとんどいない。
従来の解釈はそれだけです。しかしそれだけでしょうか。都に通じる街道は東(あずま)からなだれこむ武者が往来していた。が、みちのくの道はすいている。安穏で平和な風景はよいものだ。そういう思いも込められているような気がします。同年、秀衡病没。平泉は不穏な空気につつまれます。
 
 話は変わります。「平治物語」によると常磐は九条院・藤原呈子(しめこ 近衛天皇の中宮 1131−1176)の雑仕女(ぞうしめ)から義朝の妾となり、平治の乱のあと一時的に清盛の寵愛をうけます。
「平治物語」の「常磐 六波羅に参る事」に、「大弐(だいに 太宰府次官の最上位 保元の乱後に清盛が任命された)清盛、常磐を召し出しければ、清盛の宿所へ出でけり」とあります。「義経」(2005)で常磐を演じた稲森いずみは芝居も雰囲気もよかった。
 
1161年ごろ清盛とのあいだにもうけたと常磐の子は後に「廊御方」(ろうのおんかた)とも三条殿とも呼ばれる絶世の美女。桓武平氏流略系(「諸家系譜抄」)に清盛の八女として「女子 廊御方 母九条院雑仕常磐」と銘記されており、系譜が間違いなければ彼女は清盛の娘ということになります。
 
 廊御方は平家一門とともに都落ちし、寿永四年(1185)壇ノ浦で捕らわれます。角田文衞著「平家後抄(こうしょう)」を読むと、そのころ数え年25歳ほどで、異父兄義経によって護送され入洛したといいます。
 
 文治二年(1186)夏、行方をくらました義経について心当たりのありそうな人たちは詮議をうけており、常磐も尋問されたようです。義経の妹は藤原兼雅(左大臣 1148−1200)の舘に女房として入り、廊御方あるいは三条殿という名で仕えていましたが、兼雅と関係が生じ姫を産む。
廊御方は琴の名手であり、能書の聞こえも高く、手本を所望する人たちが色とりどりの料紙を彼女に渡す。料紙で周りが錦を敷いたようなありさまだったそうです。雅な平家一門という意識を持ちながら生涯を閉じたのかもしれません。
 
               廊御方。顔が下ぶくれ気味に描かれています。平安期に「お多福」は福の象徴とされた。
                  大和絵にみられるお多福顔は時代の流行描写にすぎず、下ぶくれが美人の基本であるかの
                  ような物言いは明治時代以降の学者の虚構。廊御方はすっきりした面立ちだったのです。
                  
                  唐衣(からぎぬ)の花の色柄(薄紅色ほか)と目がすばらしい。


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