2022年2月13日    西行の時代 補記(五)せめぎ合い
 
 源平合戦を描いた物語は読み物としておもしろく、ドラマ制作にあたって参考にすべきものは多く、よく練られています。しかし登場人物は武士、悪僧、一部貴族など内乱、紛争で華々しく戦った人たちで、戦には参加していないが都の政務を司った人、争乱の犠牲となった人たちについての言及はほとんどありません。
 
 平家都落ちのさい後白河法皇はどさくさまぎれに逃げました。摂政近衛基通がどこかから「法皇を具し奉り海西に赴くべし」という密議(寿永二年 1183)を知り、法皇に伝えたそうです(「玉葉」)。
平家としてはこのふたりを逃がしたのは大失敗。法皇と摂政、そしてその重臣などが平家と行動をともにしなければ政治的正当性は保たれません。
 
 法住寺殿(三十三間堂近辺)に移ってた逃亡者はそこを脱出、鞍馬を経て延暦寺へ向かいます(「吉記」七月二五日)。基通は平家に連れらそうになりますが、まんまと逃げ法皇を追う。都落ちに加わったのはほとんどが武士でしたが、文官の平時忠(時子の弟)は都落ちのメンバー。
 
 読物のなかで平家物語が心に残ったのは、二位の尼(時子)と安徳天皇、そして知盛の最期でした。二位の尼が安徳天皇と入水するとき、『「浪(なみ)のしたにも都のさぶらうぞ」となぐさめたてまつって、ちいろ(千尋=深い海底の形容)の底へぞ入給ふ』という文言が胸にせまります。
安徳天皇も二位の尼も命を落とすことはなかった。静かな余生をおくることができたと思うはしから、そうした悲劇がなければ後世まで伝わらなかったとも思えました。二位の尼は六十歳に届かず、安徳帝は満六歳。
 
 知盛の入水直前のことば「見るべき程の事は見つ」も忘れられません。平家物語に上記の文言がなければ現在に至るまで心の深奥にとどまることはなかったでしょう。
 
 時子(二位の尼)、時忠姉弟の系譜によると、桓武平氏で文官貴族に属し、清盛も同じ脈流ですが平安前期に双方は枝分かれし、貴族社会においてはっきり区別されているらしい。「都鄙大乱」に、壇ノ浦で捕らえられた宗盛・時忠のうち、宗盛は斬られ、時忠は流罪にとどめられたことが両者の違いをよく示していると記されています。
 
 時忠が語ったとされる、「この一門にあらざらむ人は、みな人非人なるべし」について「都鄙大乱」は考察しており、「普通これは平家一門の栄華を誇る傲慢とみなされているが、時忠の言を確認できるものはなく、このことばは清盛と平家を讃えるものであり、傲慢から発せられたものとはいえない」とし、
人非人という用語は人でなしとか人間ではないの意味ではなく、「その集団・階層ではまともな扱いをされる人びとではない」というほどの意味であるとしています。そして「この発言は驕る平家のイメージをつくる上で、きわめて効果的な役割を果たしてきたが、誤読と偏見の産物からは、速やかに解放されなければならない」と述べています。
 
 世の中が騒がしくてもそうでなくても在宅勤務や在宅なんとかはあるもので、都の貴族でおこなわれる公卿会議にも在宅諮問というのがありました(美川圭著「公卿会議」)。摂関家からの使者が右大臣などを訪れる、あるいは院・天皇から派遣された者が在宅諮問のためにやって来る。
 
 寿永二年(1183)七月諮問されたのは、平家の都落ちのさい、三種の神器が安徳天皇とともに持ち去られたが、神器のないまま八月に後鳥羽天皇(満3歳)を践祚することとなり、即位式はしかし翌元暦元年(1184)になってもおこなえず、そのまま即位を強行するか、神器が都に届けられてからにするか、朝廷の意見は二分していました。
 
 後白河院の諮問に対して右大臣九条兼実は、「王者の沙汰に至りては、人臣のつとめに有らず」、院の専決事項とこたえます(「玉葉」)。院は高倉天皇の四宮(後鳥羽天皇)と内心決めていたと思われますが、一応、兼実に諮ったのです。
 
 「たまきはる」遺文によれば、院が八条院ワ子の山荘へ行ったおり、女院が次期天皇に関して問うたことをうけて「四宮」と応じ、木曽義仲が推している三宮(北陸宮=以仁王の子)に対して、木曽など問題外、北陸宮は筋が絶えていると院は述べたそうです。皇位についていない以仁王もその子も度外視された。
 
 「都鄙大乱」は、「当時の武士は王権を守護することに存在意義がある。摂関家の兼実でさえ遠慮する王位継承に義仲が口を差し挟むというのは、おのれの分をわきまえぬ不敬行為であり、義仲に与する武士の多くが巻き添えを怖れて離脱、あるいは反抗する動きが生まれた」と記しています。
 
 都に乱入した武士は、上賀茂・下鴨神社領や石清水八幡領の田畑を苅り、都人の蔵を開けて奪い、通行人の衣装もはぎ取るという悪行をくり返します。都落ち以来、検非違使は機能せず手の施しようもなかった。
 
 本来、平家に代わって都を守護すべき立場の地方武士の、都を蹂躙したいという衝動が暴発したのか、都がかつて経験したことのない乱行と略奪。
占拠しても朝廷や上級貴族を味方につけなければ本望成就し難しなのです。武士は天皇の臣であり、配下にすぎないという大原則を顧みない義仲と地方武士の命運はそこで尽きていました。

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